02 ブッダとは、ブッダの生涯(2)

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〈2〉は菩提樹の下で瞑想をして覚りを得たときから亡くなられたときのことまでです。 (1)はこちら

ブッダの覚り

そしてある晩、ブッダガヤ(現在のビハール州ガヤの近く)のネーランジャラー川の岸辺で一本の木の下に坐り、三五歳にして目覚めた。

それ以来、彼はブッダ「目覚めた人」として知られるようになり、この木は菩提樹、すなわち「目覚め(菩提)の木」と名付けられた。

苦行でやせ細った体で岸辺まで来ると、スジャータが乳がゆをくれて、それを飲んで坐りはじめたという話は有名ですね。

ちなみにスジャータは村の貧しい娘のように思われていることが多いですが、当時のインドでは裕福な家の娘でした。

ブッダが「目覚めた」、覚ってブッダになったのは、ブッダガヤと言われる地です。次の写真はその地で、代々育てられてきた菩提樹で、仏教の聖地です。

お釈迦様が覚醒した菩提樹
お釈迦様が覚醒した菩提樹

菩提樹の下で「目覚めた」ときに、していたのは、仏教の瞑想のもう一つのヴィパッサナー瞑想という瞑想で、気づきの瞑想や智慧の瞑想と言われる瞑想です。

私は、禅僧として僧堂での修行生活の後、ミャンマーに行き、ヴィパッサナー瞑想の修行をしてきました。

ブッダが菩提樹の下で瞑想をはじめて「目覚めた」のは八日目の朝と言われていて、禅宗ではそれにちなんで、修行僧堂では臘八大接心(ろうはつせっしん)というものをします。

お釈迦様が一二月八日の早暁に覚ったから、一二月一日から八日の早暁にかけて、修行僧堂によって実際はかなり異なりますが、原則的にはこの期間はぶっ通しで坐禅をします。臘八という言葉は、一二月の旧称の臘月と八日の八から臘八です。

一方、スリランカやミャンマーなどのテーラワーダ・上座部仏教の国では、ヴァイシャーカ月の四月や五月の満月の日とされていて、その時期にお祝いをします。

さて、ブッダはこの後、坐り続けて「目覚め」で覚った(さとった)ことを考察して検証つづけました。このことはほとんど紹介されていませんね。

ちなみに、それが七週間だったので四九日で生まれ変わるというのかわかりませんが、坐り続けて検証しました。

そして

「目覚めた」のあと、ゴータマ・ブッダは、ベナレスの近くのイシパタナ(現在のサールナート)の鹿野苑(ろくやおん)で、かつて苦行を共にした五人の仲間に最初の説法を行なった。

有名な「初転法輪(しょてんぽうりん)」のことです。

成道した直後の釈迦は当初、仏法の説明は甚だ難しく、衆生に教えを説いても理解されず徒労に終わるだろうと、教えを説くことをためらったとされる。

『マハー・ワッガ』をはじめとする初期仏典には、沈黙を決した釈尊をサハンパティ梵天(brahmã sahampati)が説得したという伝説(梵天勧請)が記されている。

梵天の懇請を容れた釈迦は、世間には心の汚れの少ないもの、智慧の発達した者、善行為を喜ぶものもいることを観察した上で、最終的に法を説くことを決意した。(「甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け」に始まる有名な偈はこの時説かれたとされる。)

ブッダは当初、覚った法を説くことをためらったのです。煩わしいことになるからと。それを梵天がお願いして説くことになりました。

仏教で、最初に菩提心、衆生を救う心を起こすことが必要だということがありますが、最初はブッダもそうではありませんでした。

さて、いずれにしても、ブッダが説き始めてくださったおかげて、こうして私たちが今、仏教を学べます。よかったです。ありがたいことです。

このとき説いたのが四聖諦(ししょうたい)、八正道(はっしょうどう)、中道です。

中道は、中庸と同じことのように捉えられて、仏教では何でも真ん中を取るというような意味と思われていることがありますが、ブッダが説いた四聖諦は苦集滅道で、その道が八正道で、中道は八正道のことです。

当時、快楽を求めればいいんだという派があって、現代でもそういうものが出てきますが、あって、そうでもなく、苦行でもなく、なので中道ということです。八正道は中道です。

その日から四五年の間、ブッダは王や農民、バラモンや賤民、銀行家や物乞い、聖職者や盗賊といったありとあらゆる人たちに、いっさいの分け隔てなく教えを授けた。

ブッダはカーストや社会階級といった差別を認めなかった。 彼の説いた道は、それを理解し実践しようという意欲さえあれば、男であれ女であれ、すべての人に開かれたものであった。

その日から四五年の間、ブッダは王や農民、バラモンや賤民、銀行家や物乞い、聖職者や盗賊といったありとあらゆる人たちに、いっさいの分け隔てなく教えを授けた。

ブッダはカーストや社会階級といった差別を認めなかった。 彼の説いた道は、それを理解し実践しようという意欲さえあれば、男であれ女であれ、すべての人に開かれたものであった。

いっさいの人を分け隔てしないのが仏教です。

いっさいのということは、もちろん敵・味方もなしです。そして、自分の好き・嫌いもなしです。

また、私も本場のミャンマーで修行したくらいですから意識がそうなるのはわからなくもないですが、初期仏教、テーラワーダ仏教・上座部仏教にいれ込むようになると、仏教は覚りに到達するためのものだと思うようになったりします。

でも、この引用にあるように、ブッダは生涯、亡くなるまで、弟子だけでなく、一般の人々の助けになるようにと一般の人に説き続けていました。

仏教は覚ることを目的にしている人でない人にも開かれたもので、そのためのものでもあるのではないでしょうか。

ミャンマーで修行していた時、ある人に「森さんは何をしたいんですか」とたずねられたとき、私の口からは「覚らなくても救われる仏教」という言葉が出てきました。

ブッダの死

ブッダは八〇歳で、クシナーラー(現在のウッタル・プランデーシュ州に位置する)で亡くなった。

ブッダは最後に生まれ故郷へ向かって旅をされました。

そして旅の途中、マッラ国のパーパーで、チュンダという鍛冶工に食物の布施を受けて法を説きました。その後、ブッダは、赤い血がほとばしり出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じたといいます。

激しい下痢におそわれながらクシナーラーにたどり着き、そこで弟子のアーナンダに眠る場所をつくってほしいと言います。

(大パリニッバーナ経)

二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい。

北枕で、右わきを下にしてにして西を向いて眠る姿勢です。

そして、ブッダは、鍛冶工チュンダへの言葉をアーナンダに託します。

チェンダが自分が布施した食物のせいでブッダを死なせてしまったと思うだろう、弟子たちもそう思うだろうということを察して、チェンダはブッダに最後の布施をしたのだから大いに功徳があると。

また、チェンダが布施した食物は、ブッダは自分だけ食べて、弟子には食べさせなかったとも伝えられています。

ブッダがどのような人であったか、感じていただけましたでしょうか。

生きとし生けるものが苦しみから解放されますように、幸せでありますように。

では、また次回。

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