05 仏教的な心のあり方(3)ブッダを信じるな? カーラマーラ

今回の記事は第1章の「仏教的な心のあり方」の3です。

前回、ブッダの人の思想への自由と寛容さを学びましたが、今回はさらにブッダが人間への信頼が深く、理性的であったと知ることができる内容です。仏教はこうあるべきなのかと学べる内容です。

カーラーマ経で伝えられていること

今回、読むところは、ブッダがカーラーマの人々に説いた話で、カーラーマ経として伝えられていることです。

ブッダがあるとき、村民がカーラマーラと呼び習わされていたコーサラ王国のケーサプッタという村を訪れたときのことです。

村民たちがブッダにこう言います。 現代でも十分に思いあたることです。

師よ、さまざまな修行者やバラモンがケーサプッタを訪れます。

彼らは自らの教義だけを説明し、明確にし、他の教義を軽蔑し、糾弾し、侮ります。

そのあとで、また別の修行者やバラモンが訪れ、同じように、自らの教義だけを説明し、明確にし、他の教義を軽蔑し、糾弾し、侮ります。

しかし師よ、私たちは、こうした尊い修行者バラモンのうち誰が真実を語り、誰が偽りを語っているのかわからず、いつも戸惑っています。

師よ、さまざまな修行者やバラモンがケーサプッタを訪れます。

彼らは自らの教義だけを説明し、明確にし、他の教義を軽蔑し、糾弾し、侮ります。

そのあとで、また別の修行者やバラモンが訪れ、同じように、自らの教義だけを説明し、明確にし、他の教義を軽蔑し、糾弾し、侮ります。

しかし師よ、私たちは、こうした尊い修行者バラモンのうち誰が真実を語り、誰が偽りを語っているのかわからず、いつも戸惑っています。

バラモンはインドの種姓制度で最高位の司祭階級のことですが、どうでしょう、こういうような状況をどこかで見聞きしたことはありませんか。

仏教同士でも、日本の場合は宗祖仏教で宗祖の教義に差があって、その差で、リアルでもSNSなどでも、ここに書かれているようなことを僧や信徒がすることがあるように感じます。

さて、まずブッダは

カーラーマたちよ、あななたちが疑い、戸惑うのは当然である。なぜなら、あなたたちは疑わしい事柄に疑いを抱いたのであるから。

と、疑いを持つことを肯定しています。

続けて、惑わされないようにしたほうがよいことを言います。箇条書きにしてみます。

惑わされてはいけないこと

  • 伝聞

  • 伝統

  • 風説

  • 聖典の権威

  • 単なる論理や推理

  • 外観

  • 思弁

  • うわべ上の可能性

  • 「これが私たちの師である」といった考え

に惑わされてはいけない

どうですか、これらのことで単純に信じてしまっていたりしませんか。

ブッダはこういうことに惑わされずに

あなたたちが自分自身で、忌まわしく、間違っており、悪いと判断しならば、それを棄てなさい。あなたたちが自分自身で、正しく、よいと判断したならば、それに従いなさい。

と説きます。

実は、上記の惑わされないようしたとあげたのも、見た目や権威など本質とは関係のないことや、説いている者自身が経験して判断を導き出しだしたものではなく、他からの受け売りや論理だけで説いている場合のことになっています。

ブッダは、教えは説くけれども、人それぞれが自分で経験して判断して真理を実現することをどこまでも大切にしていました。

ブッダは

修行者は、自らが師事する人の真価を十分に得心するために、ブッダ自身のことも吟味すべきである

とまで言っています。

禅宗では「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」『臨済録』とまで言って、正しいものの見方を持とうとするならば、決してだれだれが説いたことだからと、人に惑わされてはいけないと説かれています。

疑うことを認めている

宗教は疑わずにとにかく信じることが大事なようなイメージがありますが、ブッダは違いました。

ブッダの教えによれば、疑いは真理を明確に理解し、精神的に進歩するための「五つの妨げ」の一つである。

しかしながら疑いは「罪」ではない。というのは、他の宗教で考えられているような罪は、仏教には存在しないからである。

「五つの妨げ」は「感覚的欲望」「悪意」「肉体的・心的無活力と沈滞」「落ち着きのなさと不安」「疑い」です。

「五蓋(ごがい)」と言われ、蓋(がい)は「ふた」。仏教の瞑想修行では、修行にふたをする5つの障害をのことを言います。

wikipediaより引用

五蓋(ごがい)とは、仏教における瞑想修行を邪魔する、5つの障害、つまり5つの煩悩の総称。蓋(がい)とは文字通り、認識を覆う障害のこと。

五蓋の内容は、以下の通り。

貪欲(とんよく) - 渇望・欲望
瞋恚(しんに) - 怒り・憎しみ
惛沈・睡眠(こんじん すいめん) - 倦怠・眠気
掉挙・悪作(じょうこ おさ) - 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔
疑(ぎ) - 疑い

疑うことは妨げになるが、罪ではない。こうして罪とせず妨げであるとすることが、仏教の深さにつながっています。

罪だとすると即「悪」、即やめなさい、即、態度を改めなさいとなりますが、そうはしない。

そうしないことが、そのことの起きる原因や、そのことを越えることでもたらせるもの、越える方法の追究を進めることにつながっています。

すべての悪の根源は無知であり、誤解である。

疑問、戸惑い、ためらいがある限り、進歩できないのは否定できない事実である。そしてまた、ものごとが理解できず、明晰に見えない限り、疑問が残るのは当然である。

それゆえに本当に進歩するためには、疑問をなくすことが絶対に不可欠である。そして疑問をなくすためには、ものごとを明晰に見ることが必要である。

仏教においては、すべての苦の根は「無知」「誤解」です。十二因縁の最初の「無明」です。

疑わずに、信じるべきであるというのは、的を射ていない。

ただ単に「私は信じている」というのは、本当にものごとを理解し、ものごとが見えているということではない。

そして、知識の吸収だけでもなく、自分で頭で理屈で考えて判断するばかりでもなく、自ら実践して確かめ得心しなさいとブッダは教えています。

智慧には、情報として得た「聞所成智慧」、聞所成智慧に基づいて自分で考えて得た「思惟所成智慧」、修行実践して得る智慧「修習所成智慧」の3種類がありますが、「修習所成智慧」が最上の智慧です。

出家して修行しなければいけないということではなくて、在家・出家に関わらず仏教の実践である八正道を実践して得られるようになる智慧があります。

ブッダはたえず疑問をなくすことを心がけた。

死の直前になっても、ブッダは弟子たちに向かって、あとになって疑問が晴らせなかったことを悔いることがないように、今まで自分が教えたことに関して何か疑問があるかどうか質(ただ)した。

ブッダは臨終に際しても、こう弟子たちに言いました。

思えば、ブッダ自身のスタートも「どうしたら人は苦しまずに生きられるようになるか」の疑問を解きたいということからでした。

その疑問を解決しようと、サマタ瞑想の修行、次に6年間の苦行をし、それでも解けないと菩提樹の下に坐り疑問を解きました。

さて、ブッダがこう弟子たちに質しても、誰一人、何も言わず黙っていました。すると、ブッダはこう言いました。

弟子たちよ、そなたちはもしかしたら、師への敬意のゆえに質問しないのかもしれない。もしそうなら、それはよくないことだ。友人に問いかけるように質問するがいい。

どこまでも思いやり、配慮の深いブッダではないでしょうか。

私は、曹洞宗元管長であられた板橋興宗禅師様の元で得度、僧堂修行をさせていただきましたが、板橋禅師様も、いつも柔和なお顔で、細やかな思いやり、配慮をしてくださる方でした。

板橋興宗禅師様
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