08 仏教的な心のあり方5

前回は「真実」について学びましたが、今回の学びの部分は「宗教、仏教=信仰」は当然と思っていると読みにくく、受け入れがたく拒否反応を起こして、途中で画面を閉じてしまう内容かもしれません。

でも、読んで考えてみると「信仰」とはどのようにあるとよいかを示唆してくれている内容とも考えられます。

盲信を棄てる

出だしから受け入れがたいと感じる人がいるかもしれませんが

ほとんどすべての宗教は、信仰に立脚している。しかし仏教で強調されているのは、「見ること」、知ること、理解することであり、信心あるいは信仰ではない

もうここでこの画面を閉じようと思った人もいるかもしれませんが、何ごとも学びだと思って読み進んでみてください。

仏教経典には、一般に「信仰」あるいは「信心」と訳されるサッダー(サンクスリット語ではシュラッダー)という用語がある。しかしサッダーはいわゆる「信心」ではなく、むしろ確信から生まれる「信頼」というべきものである。

本来の仏教の心のあり方は「信仰」「信心」と「信頼」を別のものとしてとらえていると考えるということでしょうか。では違いとは

信仰は、ものごとが見えていない場合に生じるものである。ものことが観えた瞬間、信仰はなくなる。

そして例が次のよう書かれています。

もし私が「私は掌の中に宝石を隠しもっている」と言ったら、あなたはそれが見えない以上、私が言ったことが本当かどうか、私のことばを信じるかどうか、という問題が生じる。 しかし、私が掌を開き宝石を見せれば、あなたはそれを自分で見ることになり、信じるかどうかという問題は起こらない。 それゆえに、古い経典には、こう記してある。「掌の中の宝石を観るように、真実を見よ」

さて、ブッダの弟子のムジーラが、ある僧に次のように言いました。

信仰、確信あるいは信心からではなく、気乗りあるいはこの身からではなく、評判あるいは伝統からではなく、表面的な理由からではなく、もろもろの意見を検討する喜びからではなく、私はものごとの生成がニルヴァーナであると知っており、それが見えている

ブッダはこう言います。

「汚れと不純さの消滅は、ものごとを知り、ものごとが見える人にとってのみ可能なことであり、ものごとを知らず、ものごとが見えない人には不可能である」

そして、ラフーラ師は次のようにブッダの教えの重要なポイント解説しています。

常に問題なのは、知ることと見ることであり、信じることではない。ブッダの教えは、「エーヒ・パッシカ」、すなわち「来て、見るように」という誘いであり、「来て、信じるように」ということではない。

このシリーズの前の記事の内容でも、ブッダはブッダが言ったこともブッダが言ったことだからと信じてはいけないと説いていましたが、ブッダは常に一貫していてブレませんね。真理を説いているので当然と言えば当然なのですが。

また、仏教という同じ冠がついていて世界、そして日本には様々な宗派がありますが、どの宗派でもブッダの教えの要諦が八正道であることにかわりはないと思います。

八正道のトップにあり八正道全体として目指しているのは「正見」を正智に高めることですね。正見は、四聖諦、因縁生起を知り理解し、その視点で「見る」、見れるようになること。正智はさらに修行体験からその智慧の眼を持つことですね。

ラーフラ師の説明の続きを読んでみましょう。

経典のいたるところで、真理の実現は「汚れることなく、錆びることがないダルマの目が生じた」、「彼はダルマを見、ダルマに到達し、疑念を乗り越え、ためらうことながない」、「彼は正しい叡智でもって、ものごとをありのままに見る」などど表現されている。

ブッダは自らの「目覚め」に関して、「目が生まれ、知識が生まれ、叡智が生まれ、知性が生まれた」と述べている。 肝心なのは、知識あるいは叡智を通じて見ることであり、信心を通じて信じることではない

この仏教的態度は、正統バラモンたちが、自らの伝統と権威を唯一の真実として信じ込み、民衆にそれを受け入れるように容赦なく強要していた時代にあっては、とりわけ高く評価できることである。

宗教は、仏教は信仰するもの、信心によるものと思っている場合は、受け入れがたい内容かもしれませんが、私は、どこまで自分自身のものとしていて信じているかと考えればよいのかもしれないと思います。

以前の記事にでも書きましたが、仏教では智慧を「聞所成智慧」「思惟所成智慧」「修習所成智慧」の三種類として考えます。聞所成智慧は情報として知っているレベル、思惟所成智慧は知った情報をもとに自分で考えてもった意見のレベル、修習所成智慧はさらに修行実践して体験したことによって会得する智慧のレベルです。

ブッダ、ラーフラ師が言っているのは、いわゆる信仰・信心は聞所成智慧またはそれ以前で信じるという盲信で、そうではなく思惟所成智慧そして修習所成智慧の智慧を持つようにということではないでしょうか。

八正道はブッダの説いた根本の根本で、修習所成智慧を得るための実践の道でもあるわけですが、八正道でたとえると、1-八正道を知らずに仏教を信心しているレベル、2-八正道を情報として知っているレベル、3-八正道について考えて理解はしているレベル、4-八正道を実践して体験から正見を理解する、正智を会得しているレベルがあって、1や2ではなくて、3そして4のレベルになるようにと。

それが、仏教的な心のあり方・態度であるということではないでしょうか。

では、今回はこのへんで。

生きとし生けるものが平穏で幸せでありますように

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