仏教の悪行為・善行為、どう判断したらよいか?
これは悪い行い? これは善い行い? どちらなのかどう判断したらよいのか…
次のブッダの言葉があります。
ブッダの言葉「ダンマパダ」
- 17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたしは悪いことをしました」と悔いに悩み、苦難のところにおもむいて、さらに悩む。
- 18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところにおもむいて、さらに喜ぶ。
『ブッダ真理の言葉、感興の言葉』中村元訳
この「悪いことをなす」と「善いことをなす」の悪い、善いとはどういうことなのか、判断がなかなか難しいように思いますが、あなたはどのように考えますか。
一般に善悪は、みんなを「快」の状態にするのか、「不快」な状態にするのかとか、仏教を説く人でも、自分、他者の安穏をつくりだすか壊すかが分別基準と考えます。
もっともな考え方であろうと思います。そして、そのように配慮することも大切であろうとも思います。
しかしながら
お釈迦様、ブッダの言う善悪は違いがありそうに私は思います。
善か悪かと判断をする軸、時間的な長さが違うような気がします。
たとえば、一般的な善悪分別基準では
自分が何かをしようと思うとき
周囲、家族がそれで困るならば、納得しないならば、それをしたら「快」安穏が壊れる人がいる、「快」安穏を壊す「不快」にするから、悪であると考えたりします。
もっともな考え方であろうと思います。そして、そのように配慮することも大切であろうとも思いますが
さて、お釈迦様は釈迦国の一人息子の王子、跡継ぎでしたが、息子が産まれると早々に出家しました。
赤ん坊が産まれたからといって、その子が無事に成長して跡をつげるとは限りませんから、お釈迦様の父親の王は苦悩したでしょう。
この時、だからとお釈迦様が出家を思いとどまっていたなら、その後、人々は、私たちも、お釈迦様の覚られた真理を今日、見聞きすることは無かったでしょう。
さらに、出家して、お釈迦様はまずサマタ瞑想を修行、その後、苛酷な苦行をしましたが、苦行は安穏な状態ではまったくありません。
また、お釈迦様は菩提樹の下で覚られた後、その覚りを人々に説くことを躊躇しました。
説けば人々は理解できず自分はわずらわしいめにあうと。つまり安穏が損なわれると。そして、その考えをかえて説くこととして説きはじめたのが初転宝輪。
同じ「ダンマパダ」に次のように書いてあります。
- 67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
- 68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
前記の17には「悔いに悩み」
67と68は「後悔」するか・しないということが入っています。
悔いる、悩む、後悔は、自分の心がすること、自分の心の状態です。自分がしたことによる自分自身の心に現れる果です。
つまり、善悪の判断の軸が自分軸です。
確かに、何かをするときの選択は周囲へのその時の影響を考慮して、できる限り、周囲の人々、また自分自身のその時の安穏が壊れないようにすることが大事です。
しかしながら
そういう配慮もしつつという基準が、お釈迦様、ブッダの説いている善悪にはあるのではないかと、私の場合は気がします。
自分軸。
お釈迦様、ブッダの遺言は「自燈明、法灯明」
善・悪、さて、あなたはどう考えますか。
ちなみに、仏教に「悪」は次のように種類が挙げられてもいます。
【三悪行】
身の悪行、語の悪行、意の悪行
【十不善業道】
殺生、盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、そして貪瞋痴…貪欲、瞋恚、邪見です。
殺生から綺語までは意思による不善な行為・意思業で、貪瞋痴は心の不善な行為であり、不善根でもあります。殺生から綺語までは心の不善根の貪瞋痴によって生起します。