実態は、多くの人が乗れている大きな乗り物のテーラワーダ仏教でした

実態は、多くの人が乗れている大きな乗り物のテーラワーダ仏教、多くの人は乗れていない日本の大乗仏教?

私は禅の修行をした後、ミャンマーに修行に行きましたが、日本で見聞きする小乗仏教、大乗仏教という概念、イメージはぶっ飛びました。恥ずかしくなりました。素晴らしいなぁと思いました。

ミャンマーの寺院は、毎日毎日、たくさんの一般の人が当たり前にきて、おじいちゃん、おばあちゃんから赤ちゃんまで家族総出で自分たちがお布施をしたのを僧侶たちが食べるのをみていたり、サヤドーに相談したり、法話を聞いたり、瞑想したり…

本当の多くの一般の人たちが日常で乗っている仏教でした。素晴らしかったです。

いっぽう日本の寺院はというと、どうでしょう…。最近は、少子高齢化、仏教離れで檀家さんが減って経営難等の理由などで、一般の人のための開かれた経営をするようになってきているようですが…

さてさて、日本で仏教全般やテーラワーダ仏教をかじるようになると、どうも、わかりやすく言うと行き過ぎの原理主義的になる傾向が無きにしもあらずのように感じます。

例えば、一般の場での人同士のやり取りで、それは煩悩、執着、とらわれている等々、人に指摘したりすることを見聞きします。

愛はだめで、慈悲はいいとかもありますね。

もしそういうことがされていたら、テーラワーダの国のミャンマーなどのように多くの人が乗っている状況になっていますでしょうか。

実は、私も原理主義的でした。あるときあることで、サヤドーとの個人面談で、それでサヤドーに笑われて、あぁ、そうなんだと目からウロコが落ちました。

サヤドーのかわいい子供を見るような笑顔を、とても優しく感じました。

生きとし生けるものが苦悩し続けることから解放されますように、幸福でありますように

ありがとうごさいます。