無常だけれど、こうすると生き生きと生きることを可能にします
「諸法無我」は、どうなればそうなるということではないです。「諸行無常」「一切行苦」も普遍的な今ここの物ごとのありようの仕組みのことです。
私たちがどうなろうと、ならなかろうと、すべては一瞬一瞬に縁起で生起している、因縁生起…、これは普遍的なことであり
諸法無我、諸行無常、一切行苦は、あれもこれもそれも、私もあなたも誰もが、すべてが因縁生起であり
永続的・固定的な「我」はなく(諸法無我)、すべて生起・変化・消滅するものであり(諸行無常)、そういう状態に常にさらされている(一切行苦)という意味で、やはり普遍的なことです。
釈尊の道の実践、仏道は、8つの徳目の八正道ですが、その第一の正見を8つの徳目の実践によって、正智にしていきます。
正智は、縁起、苦集滅道の四聖諦、諸行無常、諸法無我、一切行苦を、知識理解のレベルから、そうであるという「智慧」として持っているレベルになりますが
諸行無常、諸法無我、一切行苦は、どうなれば、こうすればそうなるということでない、今ここ、今この瞬間この瞬間が、そうなのだ、その仕組みの中で生きている、そう得心している状態になります。
仏道は、そういう智慧の見解にたって、今ここ、今この瞬間この瞬間を生きるようになることを目指すものです。
無常という言葉のニュアンスから、また執着をよしとしないと過剰に思い込むと、仏道は無味乾燥な生き方となるものかと思うことがありますが
たとえば、今この瞬間この瞬間、結ばれている縁起を有り難いことと感謝する心、すべてはとどまることのない変化の途上にあることと赦しの心となり
生き生きと生きることを可能にします。
生きとし生けるものが苦しみから解放されますように、幸せでありますように