坐禅のやり方は指導者で違う? 無心になるのとも違う?

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タイトルを見て「え?」と思ったでしょうか。

こんなことを禅僧として修行もした私が言うと、何を言っているんだと思われるかもしれませんが

実は、禅宗のホームページなどを見ても、坐る型までなどは説明してありますが、瞑想状態のやり方はそれぞれの指導者に指導してもらうように等となっています。

指導者によって異なることがあるのです。

たとえば、坐禅は数息観をするものか?

一般に、息、心を整えるために、当たり前のように数息観(すそくかん)という数を数えるやり方をするとよいとよく教えられています。

でも、実は禅宗の曹洞宗の開祖の道元禅師は、小乗のような数息観はしてはいけないと指導していました。

坐禅で数息観をすると集中の瞑想になる

いわゆる小乗の流れを引いているのは、今の上座部仏教と言われる派ですが、本来のマインドフルネス瞑想のブッダの瞑想法を守ってきたと考えられていて、近年のマイントフルネス瞑想の元もそうです。

そして、それは大別すると集中の瞑想のサマタ瞑想と気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想がありますが、数息観は集中の瞑想のサマタ瞑想の1つのやり方になります。

つまり、坐禅で数息観をするというのは、坐禅というより集中の瞑想のサマタ瞑想をしていることになります。

禅の坐禅は集中瞑想か

さて、坐禅は坐禅をしていて思考や感覚が現れてきたら、それらは取り合わずかまわず坐禅し続けるとされています。

では、坐禅は集中瞑想でしょうか。集中瞑想では悟れません。

坐禅で「無心になる」とよく言われますが、この言葉は要注意です。

例えば道元禅師は中国で坐禅中に隣りの僧が師僧に怒られたのがきっかけで「眼横鼻直」と大悟なさいました。もし、道元禅師が一般的に思われる無心状態にになっていたらそうはならなかったはず。

坐禅の「無心」

集中瞑想の場合、スポーツなどがしていることへの集中が高まるとゾーンに入ると言いますが、瞑想中に集中が高まるとそのようになり、それが「無心」のようですが、坐禅で「無心」と言う場合はそういう意味とは違います。

集中瞑想やスポーツ選手などのゾーンの無心は、それをしている際中になり終わると切れますが、坐禅による無心は際中ばかりでなく坐禅を終わっても継続するようになります。

エゴイズムがきれいにされて、計らいのない、とらわれのない反応や認識、判断ができるようになります。

でも集中瞑想のようなやり方で坐禅をしたら、こうはならない。ではどうするものなのか。

奥義書での坐禅のやり方の説明

では、坐禅は本来どのようなやり方なのか。

知る手立てとして日本の坐禅のやり方のおおもとの2つの奥義書、『普勧坐禅儀』と『坐禅儀』の両方から坐禅のやり方の部分をみてみてましょう。昔の言葉ですが読めばどうするものかわかると思います。

そして、特に見てほしいのは「瞑想状態」でどうするかの部分です。

一般に「無心になる」と思われていたりしますが、そのようなことは書かれていませんし、奥義書片方ではわかりにくいですが、二つを読むと見えてくることがあります。

なお『普勧坐禅儀』『坐禅儀』全体は、やり方以外、坐禅とは何かなども説かれています。

坐禅儀にみる坐禅のやり方

(足の組み方)

しかして結跏趺坐(けっかふざ)す。まず右の足をもって、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。あるいは半跏趺坐(はんかふざ)もまた可なり。ただ左の足をもって、右の足を圧すのみ。

(姿勢、左右揺振、口、目)

次に右の手をもって左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相支え、徐々として身を挙し、前後左右、反覆揺振して、すなわち身を正しうして端坐せよ。

左に傾き右に側立ち、前にかがまり後に仰ぐことを得ざれ。

腰脊頭頂骨節をして相支え、状(かたち)浮屠(ふと)のごとくならしめよ。また身を聳立つこと太だ過ぎて、人をして気急不安ならしむることを得ざれ。   

耳と肩と対し、鼻と臍と対し、舌は上の顎を支え、唇歯相著けしむることを要す。

目はすべからく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。もし禅定を得ればその力最勝なり。いにしえ習定の高僧あり、坐して常に目を開く。

向(さ)きの法雲円通禅師も、また人の目を閉じて坐禅するを訶して、もって黒山(こくざん)の鬼窟(きくつ)といえり。けだし深旨あり、達者これを知るべし。  

(瞑想状態は)

身相既に定まり、気息既に調うて、しかして後臍腹を寛放し、一切の善悪すべて思量することなかれ。

念起らばすなわち覚せよ。これを覚すればすなわち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片となる。これ坐禅の要術なり。

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普勧坐禅儀にみる坐禅のやり方

(足の組み方など)

或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。

謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の(もも)の上に安じ、左の足を右の(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の(もも)を圧(お)すなり。

寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。

(姿勢、口、目、欠気一息、左右揺振)

次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。

乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。

耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。   

鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して

(瞑想状態は)

箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。

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坐禅のやり方 まとめ

いかがでしたでしょうか。奥義書は読むと坐禅のやり方の要諦がわかるありがたい文章です。全体を読むとさらいにためになります。

でも、瞑想状態の「要術」の部分が、指導者それぞれ違ったりしています。

道元禅師の「箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」がよくわからない。いろんな解説がされています。

坐禅は実は気づきの瞑想の面も持ったやり方?

坐禅儀のほうを見ると、瞑想状態の部分が「一切の善悪すべて思量することなかれ。念起らばすなわち覚せよ。これを覚すればすなわち失す」となっています。

この文は、私のように坐禅だけでなく、上座部仏教の集中の瞑想のサマタ瞑想、気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想を修行した人は気がづくのではないでしょうか。

念起こらばすなわち「覚せよ」。一般に坐禅は思考などが現れても、それらにかまうことなく、ただひたすら坐禅を続けると言われていますが、そうではなく自覚する。

気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想も、心身の現象が現れたら気づき、自覚します。さらに「これを覚すればすなわち失す」、そうすると現象は消えていきます。

安泰寺住職であられた高僧、内山興正師の著著の中にこのことを「覚触(かくそく)」と書かれていました。

上座部仏教では、古来、気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想がブッダの智慧の瞑想、悟りの瞑想と言われています。

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