日本のマインドフルネス瞑想における禅の弊害、リスク


この記事は禅側の人にもマインドフルネス瞑想をしている人側にも反感をかうかもしません。でも、マインドフルネス瞑想の本当の効果を得られる人が増えてほしいので書きます。
例えば、マインドフルネス瞑想が流行するようになると「マインドフルネス瞑想は禅がルーツ、日本に逆輸入された」という言葉を見聞きするようになりましが本当でしょうか。
違います。はっきり申しますが、私は禅僧として禅を修行して、マインドフルネス瞑想も根本から修行して、坐禅とマインドフルネス瞑想を指導している者ですが違います。
流行のはじめころは、禅サイドはマインドフルネス瞑想を低く見て、まがいもののような発信もしていました。
マインドフルネス瞑想の根本のヴィパッサナー瞑想をミャンマーで修行して素晴らしさを実体験した私は、そんなことしないでもいいのにと思っていました。
それが流行が本格化すると「マインドフルネス瞑想が禅がルーツ、日本に逆輸入された」と言うようにもなって、禅が流行に乗ろうとしているような感じとなってきました。
禅サイドが宗派をあげてマインドフルネス瞑想の講義を聞いたりなどもして、禅僧がマインドフルネス瞑想を教えるようにもなりました。
そして、マインドフルネス、マインドフルネス瞑想について、禅、坐禅の考え方、やり方のように講座やセミナーをするようにもなりました。著名な僧によってもそれが行われるようになりました。
マインドフルネス瞑想側からも
また、ストレス緩和、医療系・心理療法系、ビジネス系にアレンジされたマインドフルネス瞑想をしていた人側も、禅サイドの流れと同化するような状況になってきました。
それは、それらの発端のマインドフルネスストレス低減法を開発したジョン・カバットジン教授に、禅の考え方を元にしているというような発言があるからでもあります。
余談ですが、ガバットジン教授は、曹洞宗の道元禅師のことをあげていますが、私が少々不思議に思うのは、カバットジン教授が長年している禅は、曹洞宗とは違う韓国禅です。
さて、そうしてマインドフルネス瞑想を教えているような人の多くも、マインドフルネス、マインドフルネス瞑想を禅、坐禅まがいに教えるようになってきました。
マインドフルネス瞑想は坐禅とは違う
マインドフルネス、マインドフルネス瞑想を、禅、坐禅のようなものと考え、そう取組んでいたら、マインドフルネス瞑想にはならず、本当のマインドフルネスにはなれません。
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例えば、日本でマインドフルネス、マインドフルネス瞑想で良く使われるフレーズに「今ここに集中」がありますが、これはマインドフルネス、マインドフルネス瞑想を適切には表わしていません。
マインドフルネスストレス低減法の解釈や禅寄りに解釈したことなどから、こういうフレーズを使うことがされるようになったと思われます適切ではありません。
マインドフルネス、マインドフルネス瞑想は注意集中も大切ですが、それがメインではありません。
そのため、日本では、マインドフルネス瞑想をしていても、マインドフルネスの本当の効果を得られるている人はまれという状況になってしまっています。
マインドフルネス瞑想の本当のルーツ
禅がルーツが本当かどうか、正しいのかは、マインドフルネス瞑想の由来から考えればわかることです。次の2つの面からそれを解説します。
流行のマインドフルネス瞑想の本当の元は?
近年、マインドフルネス瞑想が流行するようになったきっかけは、アメリカのマサーチューセッツ工科大学医学部教授のジョン・カバットジン教授がストレス対処、ストレス緩和のためにつくったマインドフルネスストレス低減法です。
その瞑想方法が精神医療やビジネスの生産性を上げることなどにも効果があると、取組み方を変えられるなどしてマインドフルネス瞑想ととして広まるようになりました。
では、マインドフルネスストレス低減法をカバットジン教授が何からつくったか? 禅の坐禅とミャンマーなどの上座部仏教のヴィパッサナー瞑想です。
禅の坐禅からだけではありません。禅の坐禅の部分は全体の10%ほどでしょうか。10パーセントのものが自分がルーツとか、逆輸入というのはどう思いますか。
本来のマインドフルネス瞑想とは?
そもそも「マインドフルネス」という言葉は、1880年頃、仏教の八正道という実践やあり方の教えにある「正念(しょうねん)」のことが英訳されたものです。
1960年代からは、アメリカでティク・ナット・ハン師などが「マインドフルネス」を中心にして仏教を説くようになりました。
仏教のマインドフルネスの瞑想法はヴィパッサナー瞑想で、ミャンマーなどの上座部仏教ではヴィパッサナー瞑想をマインドフルネスの瞑想とも言います。
もともと上座部仏教のヴィパッサナー瞑想がマインドフルネスの瞑想と言われていたのです。マインドフルスはヴィパッサナー瞑想のやり方をすることによって実現することです。坐禅では実現しません。
ルートが違うものの合体?
お釈迦様が2500年ほど前に、インドで仏道を説かれて、亡くなられてから、チベット、中国、韓国、日本などに伝わったルートの仏教を北伝仏教と言います。
スリランカやミャンマー、タイなど、南アジア、東南アジアなどに伝わったルートの仏教を南伝仏教と言います。
禅は北伝、ヴィパッサナー瞑想は南伝
坐禅、禅は仏教の流れのものですが中国からが始まりで北伝仏教です。いっぽう、そもそものマインドフルネス瞑想のヴィパッサナー瞑想は、上座部仏教で南伝仏教です。
ですから、マインドフルネス瞑想は禅がルーツ、日本に逆輸入というより、もし言うならば別ルートのものが合体と。
実は坐禅無しでもマインドフルネス瞑想は成り立つ
そして、実はマインドフルネス瞑想は坐禅なしでも成立します。近年のマインドフルネス瞑想もそうです。
ヴィパッサナー瞑想とセットの瞑想法にサマタ瞑想という瞑想があります。ヴィパッサナー瞑想が気づきの瞑想でマインドフルネス瞑想のメインで、サマタ瞑想が集中の瞑想でその支えや高めるための瞑想になります。
もともとのマインドフルネス瞑想は、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想のセットです。
まとめ
私は禅僧として坐禅を修行もして坐禅の素晴らしさを知っています。でも、マインドフルネス瞑想との関係は説明した通りです。
なお、具体的にさらにどう違うものなのかは次の関連記事で説明しています。興味があったらお読みください。
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さてところで、私は坐禅の修行をした基盤があったので、そうではない人たちと比較して本場のミャンマーでもみるみる上達できて高い効果を得られました。
近年の流行のマインドフルネス瞑想の発端のマインドフルネスストレス低減法を開発したカバッドシン教授も、坐禅に取組んでいた土台がありました。
つまり、坐禅はマインドフルネス瞑想のルーツではなく、メインでもないけれども、マインドフルネス瞑想習得の土台として大いに役立つということです。
マインドフルネス瞑想の土台に坐禅を活かす
マインドフルネスの高い効果を得るには、確かな気づきの瞑想と集中の瞑想の両輪を習得して取組むことが大事です。
最も確実なのは本来のマインドフルネスの気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想、集中の瞑想のサマタ瞑想そのものですが、本格的な集中の瞑想をする前に全体の基礎づくりとして坐禅を活かすととても良いのです。
坐禅は奥が深いですがやり方はシンプルなので、基本の型の習得や取組みのスタートに最適です。集中の瞑想として取組むことも可能です。
こうするとマインドフルネス瞑想全体の習得がひじょうにスムーズに進むようになり、効果的にもなります。
坐禅とマインドフルネス瞑想、違いをきちんと理解して、違いを活かして取組むことで、マインドフルネス瞑想のよい効果、高い効果を得ることが可能になります。
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