マインドフルネスと禅の関係と違い、やり方の真実。マインドフルネス瞑想に必須の要素は

禅とマインドフルネス瞑想を同じようなものと思ってしていたら、いずれも100点中10点どまり位になってしまうので、禅とマインドフルネス瞑想の違いについてお話しします。

禅僧の私が言うのもなんですが、マインドフルネス瞑想は禅では実現できないことを実現できるものです。もちろん私は禅を見下しているわけではありません。禅もマインドフルネス瞑想もともに大切に思っているのでこの記事を書かせていただきます。

「禅=マインドフルネス瞑想」としている人がいますが間違いですし、「マインドフルネス瞑想は禅がルーツ」「マインドフルネス瞑想は日本に逆輸入されたもの」と言う人もいますが、それもカン違いです。

禅だけではマインドフルネス瞑想には足らない

マインドフルネス瞑想をすることを考えた場合、禅だけではマインドフルネス瞑想としてはまったく足りません。

また、禅の坐禅はマインドフルネス瞑想だと言っていたら、禅がスタレテしまいます。禅とマインドフルネス瞑想の関係、違いをしっかりと認識して、互いを活かすことが双方を発展させていくには大事です。

私ごとになりますが、私は曹洞宗の禅僧で、禅の僧堂修行を終えたのち、日本でマインドフルネス瞑想の根本のサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を習得して、ヴィパッサナー瞑想はさらに本場のミャンマーに行き、さらに本格的な瞑想法を3カ月間、修行してきました。

その上で現代的なマインドフルネス瞑想も学び取組み、現代的なマインドフルネス瞑想、本格的なヴィパッサナー瞑想まで習得できる2つの講座をしていますが、いずれも禅とマインドフルネス瞑想の関係と違いを大事にして、禅にも取組めるようにしています。

マインドフル瞑想とは

そもそも現代版のマインドフルネス瞑想は、どのように構築されたものでしょう。

多く人が知るようになりましたが、アメリカのマサチューセッツ大学のジョン・カバットジン教授のマインドフルネスストレス低減法の瞑想法が現代版のマインドフルネス瞑想の先駆けです。

アメリカではそれより前、1960年代からベトナム人僧のティク・ナット・ハン師などが「マインドフルネス」を説きはじめ、その瞑想法や、東南アジアや南アジアのテーラワーダ仏教の瞑想がマインドフルネスの瞑想として知られて実践されるようになっていました。

カバットジン教授はどのようにマインドフルネスストレス低減法を構築したか

教授は長年、禅をしていました。教授は日本の禅僧以上に韓国で禅の修行をした経験があります。しかし、禅だけでは教授はマインドフルネスストレス低減法を考えつくことはありませんでした。

教授は、テーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想に取組み、そして、マインドフルネスストレス低減法を考えつき、禅、ヴィパッサナー瞑想から構築しました。

マインドフルネス瞑想はヴィパッサナー瞑想がポイント

つまり、ヴィパッサナー瞑想にマインドフルネス瞑想の秘訣はあるのです。ヴィパッサナー瞑想のやり方の要素がマインドフルネス瞑想には欠かせないのです。

ですから、「禅=マインドフルネス瞑想」ではないですし、禅だけではマインドフルネス瞑想としては足りないのです。

マインドフルネス瞑想は仏教のサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想

ティク・ナット・ハン師が「マインドフルネス」を中心にしてアメリカで仏教を説きはじめましたが、マインドフルネスはもともと仏教の「正念」と言うことが英訳されたものです。

そして、そのマインドフルネスの瞑想があり、それが現代のマインドフルネス瞑想の根本です。仏教の瞑想には大別してサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想がありますが、それが根本です。

本来の禅の坐禅はこの種別を越えたものですが、通常の坐禅はほぼサマタ瞑想になっています。

マインドフルネスストレス低減法は、カバットジン教授が禅をして、ヴィパッサナー瞑想をして、それで構築したので、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の両方のやり方の要素が入っています。

両方をきちんと修行、トレーニングした人には、両方の要素が入っていることがわかります。禅を修行し、ヴィパッサナー瞑想もちゃんと修行やトレーニングした者なら、禅とは違うヴィパッサナー瞑想のやり方が入っているとはっきりわかります。

私は、禅の僧堂修行ののち、まず日本でサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を習得して、その後、ミャンマーに行きヴィパッサナーの瞑想修行を3カ月間してきましたので、はっきりわかります。

ヴィパッサナー瞑想のやり方の要素がなければマインドフルネス瞑想として失格

もともとの根本の仏教のマインドフルネス瞑想もそうですし、現代的なマインドフルネス瞑想の元のジョン・カバットジン教授のマインドフルネス瞑想も、ヴィパッサナー瞑想が大事です。

しかし、流行して、マインドフルネス瞑想だと出回っている情報や教えられている方法はどうでしょう。ちゃんとヴィパッサナー瞑想のやり方の要素が入っているでしょうか。

以前からあった瞑想法や集中法や、一般的なヨガなどなど、様々なものをマインドフルネス瞑想だという人が出てきましたがどうでしょう。

禅だけでもそうです。禅だけでは、禅のやり方だけでは、マインドフルネス瞑想になっていません、足りません。マインドフルネス瞑想だと言って禅の坐禅を教えていませんでしょうか。ほとんど禅の坐禅のように教えていませんでしょうか。

ちなみに、マインドフルネス瞑想を教えている人やしている人で、「今ここに集中」「今ここに集中」とマインドフルネス瞑想を言い、している人がいますが、それではまるで禅になってしまいます。マインドフルネス瞑想は「今ここに集中」だけではないですよ。

禅とマインドフルネス瞑想は目的があるかないかの違いか

最近、禅宗サイドが、マインドフルネス瞑想と禅の違いは、禅の坐禅はどうなりたい、何のためと目的を持たずにするもの、マインドフルネス瞑想は世俗的な利益を目的としてするものという違いと言っているのを見聞きします。

この論は格好つけすぎのように思いますし、禅僧なのに不合理なこと言っていると私は思います。

禅の僧侶も世俗的な目的があって坐禅を始めた人がたくさんいます。家が禅寺だからしょうがなく坐禅をはじめた禅僧がどれだけいることでしょう。世俗的な目的があってはじめてもよいし、していても良い。

そもそもお釈迦様は、人が苦悩から解放されるようにを目的としていたのですから、まったく目的なしとは違いますし。

坐禅をするそのときには、世俗的な目的の利益を持たずにする、それ以外の世俗的な思案などもすべて打ち去って、ただ坐る。それが禅の坐禅。

ちなみに現代的なマインドフルネス瞑想、マインドフルネス瞑想の根本のヴィパッサナー瞑想をしている人も、当初は世俗的な利益を求めてが多いですが、しているうちに、ただ瞑想するようになる人が大勢おられます。

ですから、目的があるか、ないかが、禅とマインドフルネス瞑想の違いではありません。やり方が違うのです。目的云々と精神論のような話ではなく、具体的にやり方が違うのです。

やり方が違うと認識して認めないと、間違ったやり方をしてしまうことになります。マインドフルネス瞑想の秘訣のヴィパッサナー瞑想と禅とでは、やり方が違います。

禅とヴィパッサナー瞑想のやり方の違い

ネットを見ていると、禅のやり方をマインドフルネス瞑想のやり方だと書いているものを見かけますが違います。たとえばこんな違いがあります。

一点集中ばかりではない

現代のマインドフルネス瞑想の中にも、禅のように呼吸などの一点、一つのことに集中しつづける瞑想があります。

集中の瞑想は、マインドフルネス、マインドフルネス瞑想の支えになる心の安定・静まり、集中を得るために役立つ瞑想です。これは禅的な面、サマタ瞑想的な面です。でも、これだけで終わっていたらマインドフルネス瞑想ではありません。

マインドフルネス瞑想は、一点、ひとつのことに集中つづけるのではなく、起きてくる、起きている心と体の現象を自覚化して気づくことをしていく瞑想がメインです。これはヴィパッサナー瞑想です。

調身、調息、調心はヴィパッサナー瞑想には必須ではない

禅の坐禅ではよく「坐禅は調身、調息、調心です」と言います。マインドフルネス瞑想はそういうものだと説明しているのも見かけますが、ヴィパッサナー瞑想は違います。逆にそういうことはしないようにするものです。

起きてくる、起きている心と体の現象を自覚化して気づくことを繰り返していく瞑想ですから、たとえば、坐る瞑想ではとりあえず姿勢よく坐りますが、瞑想していて、姿勢がくずれてきたら、くずれてきたとそのまま気づくことします。意識的にすぐその姿勢をおなすようにもしません。

起きてくる、起きている心と体の現象をそのままあるがままに気づいていくことを繰り返していくことで、気づきの習性と力、脳の変化、自分の心身の機能、すべての成り立ちの真理に気づくようになっていくのが、マインドフルネス瞑想で大事なことです。ヴィパッサナー瞑想の面によるものです。

身心一如はなくて名色分離智のヴィパッサナー瞑想

そして、禅の坐禅は身体と心は一つという意識になっていくわけですが、マインドフルネス瞑想のメインの元のウィパッサナー瞑想は逆の名色分離智(みょうしきぶんりち)という理解が洞察による智慧として現れてくるものです。

名色分離智は、心と身体は別であるという智慧であり、ヴィパッサナー瞑想の実践の繰り返しで現れる洞察による智慧の第一段階です。

この第一段階の名色分離智の現れがあって、瞑想実践によって次の段階以降の洞察による智慧が現れてくるので、名色分離智は重要な洞察智です。

マインドフルネス瞑想は禅とルートが違うものの合体

お釈迦様のインドから、マインドフルネス瞑想に特に欠かせないヴィパッサナー瞑想は、禅とは、そもそも別のルートで守られてきたものです。

お釈迦様の実践の瞑想が木の幹だとすると、現代のマインドフルネス瞑想に取り入れられたヴィパッサナー瞑想と禅は、幹から別の枝です。

北伝仏教と南伝仏教

仏教は2500年から2600年前頃に、今はネパール領に含まれている北インドで生まれたシッダールタ、後の釈尊、ブッダが覚り、説き広めたものです。

ブッダ亡き後、チベット、中国、韓国、日本に伝わったのを北伝仏教と言います。北伝仏教はもともとのブッダの教えから様々に変化し、日本は特に開祖仏教、宗祖仏教と言われ、ブッダより宗派の開祖、開祖の教えを第一とする特徴があります。

そして、禅は中国の達磨禅師を開祖とするものです。

いっぽう、スリランカやミャンマー、タイなどに伝わったのを南伝仏教と言い、南伝仏教はできるだけブッダの元々の教えと実践を守るようにしてきました。南伝仏教は上座仏教やテーラワーダ仏教と言い、ヴィパッサナー瞑想はテーラワーダ仏教で守られ、実践されてきたものです。

ですから、「マインドフルネス瞑想は禅がルーツ」とか「マインドフルネス瞑想は日本に逆輸入されたもの」も間違いです。現代的なマインドフルネス瞑想は、ルートが違うものが合体したというべきでしょう。

マインドフルネス瞑想はサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を

さて、ヴィパッサナー瞑想のことに触れてきましたが、本来のマインドフルネス瞑想ではサマタ瞑想も大事です。現代的なマインドフルネス瞑想でもサマタ瞑想の要素の面も大事です。

仏教では昔から両方は鳥の両方の翼のようなものと言い、片方では足らない、バランスが重要と言います。マインドフルネスな人になるには、集中の力と、気づきの力の開発が大事です。

サマタ瞑想は一点に集中し集中の力の開発をする瞑想、強い禅定状態になることもできる集中の瞑想です。ヴィパッサナー瞑想は瞬間瞬間の気づきの力を開発する気づきの瞑想、智慧を得ることのできる智慧の瞑想です。

ヴィパッサナー瞑想を支え高めるサマタ瞑想

サマタ瞑想に取組まずにヴィパッサナー瞑想だけの取組むと、集中の力、心の安定が足りず、ヴィパッサナー瞑想の瞬間瞬間に気づくことが適切にいかない場合が多くなります。

サマタ瞑想だけでも集中と心を静めることができるようになり価値がありますが、その集中と心を静める力が、ヴィパッサナー瞑想をするときの土台になり、よりヴィパッサナー瞑想を効果的にできるようにします。

集中と心の安定度が低くヴィパッサナー瞑想にあまり取組むと、心身の状態がおかしくなるときもあります。ですから、サマタ瞑想も大事です。

まとめ

禅だけではマインドフルネス瞑想として足りませんが、一般的な禅の坐禅のやり方は、サマタ瞑想的なものです。

もちろん禅の坐禅だけでも素晴らしいものですが、禅の坐禅をサマタ瞑想的にマインドフルネス瞑想に活かすことができます。

禅の坐禅に取組むことで、集中の能力が高められ、心の安定を手にしていくことができます。そうして、マインドフルネス瞑想に欠かせないヴィパッサナー瞑想、ヴィパッサナー瞑想の面の土台をしっかりすることができます。

ありがとうごさいました。

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