マインドフルネス瞑想の根本・ヴィパッサナー瞑想の体験・悟りの例
マインドフルネス瞑想の元、本来のマインドフルネス瞑想のヴィパッサナー瞑想に正しく繰り返し取組み続けていると、瞬間瞬間の瞬間定という集中の力がつくとともに、気づきの習性、気づきの能力・力が高まっていきます。脳に変化が起きてもきます。
そして様々な体験をして、悟り、智慧も現れてくるようになります。なお、ここでいう悟りはお釈迦様がブッダとなられた「覚醒」を指しているのではないとご理解ください。
覚醒するまでには、様々な悟りの智慧を得ていく段階があります。
ではどんな体験、悟りがあるのか、一部を今回はご紹介させていただきたいと思います。
すべては無我
たとえば、無我を体験するときがきます。理屈の理解ではなく、無我を境地として体験して、無我であると知るときがきます。すべては無我だと悟るときがきます。
無我を知識で知っているという次元のことではありません。知識で知っている程度のことは実際にはあまり役立つことではありません。
無我は「自我(エゴ)をなくしてなるもの」のように考えられていることが多いと思いますが、そうではなく、何かをなくす無くさないということではなく、そもそも無我なんだと悟ります。
無我の境地の体験は、不思議な感じのする体験です。頭で無我を理解しているのでは、けしてそういう無我は分からないでしょう。
ミャンマーでの修行トレーニングでは、週に3回決まった曜日にそれまで取組んだ状況をサヤドー(長老)に報告して進んできますが、私もある日、報告をすると、「それは無我の境地にいた」と言われました。
たとえば、ヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想をしているとき、歩みは進んでいるが、足の存在を認められないときがきたり、食べる瞑想や日常の動作への気づきの最中に、ものを持っているはずが、手の存在を認識できないときがきたりします。
「私の足」「私の手」「私」がないことを、その境地になって知ります。
そうして「私」も「あなた」もなく「あれ」も「これ」もなく、すべては永続性・固定の実体のない無我なものだという悟りがおとずれます。すべては、そのときそのときの縁によって生じているものという悟ります。
すべて体の現象と心の現象からなる
すべて、そのときそのときの心の現象と体の現象だと知り、悟るときがきます。
すべて心の現象と体の現象だということはどういうことなのか。
知識や理屈から理解することはできます。しかし知識や理屈からの理解というものは、生きている瞬間瞬間の実際には役立つものではありません。
それに対して体験を通して悟ったことは、常に自分と共にあるようになり役立つものとなります。
仏教では、他人や本などで得た知識を聞所成慧、自分の内的な思索によって得られるのを思所成慧、修行の実践の中で得られるのを修所成慧として智慧を分けますが、修所成慧を得ることが大事です。
理屈での理解
理屈としては、たとえば、私たちは「自分の姿はこうだ」と思っています。では、こうだと思っているその姿はどのように思うようになったのでしょう。
私たちは、「自分の姿」の部分を直接に見たり、鏡に写真に映像に写っている姿を見て、それを「自分の姿」と記憶しています。そして、その記憶を思い起こすことによってそう思います。
つまり「自分の姿」とは、見るという体の現象があって、認識する記憶するという心の現象があって、記憶を思い起こすという心の現象があって、存在するものということです。
見ることがなかったら、認識し記憶することがなかったら、記憶を思い起こすことができなかったら、自分の姿をこうだと思える元がなくなってしまいますから、「自分の姿」は存在できません。
ヴィパッサナー瞑想を通しての理解
ヴィパッサナー瞑想では、この見解を理屈からでなく瞑想体験により悟りとして得ます。
ヴィパッサナー瞑想では、体の現象、心の現象に気づき続けます。
ミャンマーなどの修行では、朝に目をさましたときから夜に眠りにつくまで、ずっと気づき続けます。気づきが切れているとき、瞑想修行者は死んでいるのと同じとも言われるほどに、体の現象、心の現象に気づき続けます。
そうすることで、体と心それぞれの機能、体の現象、心の現象とは何かを知るようになり、すべて体の現象、心の現象からなっているという悟りが現れます。
そして、体の現象、心の現象は、永続的なものではなく刹那刹那に生起する一時のもの。現われ消えるものです。
すべて無常である。永続的・固定的な実体のあるものはない無我である。すべて、そのときそのときの体の現象、心の現象の縁起で現れているという悟りが現れてきます。
我見、我執の崩壊
「私」も「あなた」もです。「あれ」も「これ」もすべて。すべては無我。
「私」がないということから「私のもの」という概念も壊れます。すると「私」「私のもの」と判断したり、「私」「私のもの」と執着することが消えていきます。
ヴィパッサナー瞑想に正しく取組み続けていると、こういう見解の悟りが現れてきて、その悟りを持って生きるようになりはじめます。
ヴィパッサナー瞑想は洞察による智慧も現れるもので、洞察による智慧としてこのことが現われれば、それからは自ずと常にこの見解とともに生きていくようになります。