仏教で大事な不放逸とはマインドフルネス 板橋禅師との思い出も
仏教では不放逸(ふほういつ)でいないことが大事と言われます。不放逸は流行して知る人の多くなった「マインドフルネス」と同様のことでもあります。
お釈迦様は弟子たちに次の遺言をされて亡くなりました。
比丘たち、今、あなたたちに伝える。
諸行は無常である。
怠ることなく修行を完成なさい。
(パーリ仏典, 長部大般涅槃経)
比丘というのは修行僧のことで、「怠ることなく」は不放逸で、正しく気づき、正しいあり方、行為をするようにいることです。
お釈迦様は弟子たちに、「気づきを前面において生きなさい」と指導していて、常に正しく気づき、正しいあり方、行為をするようにいて、修行を完成させなさいとおっしゃって亡くなったのです。
気づきは、仏教の根本実践の「八正道」の中に「正念」としてもあります。ちなみに「マインドフルネス」は1800年代後半に「正念」が英語にされました。
法句経『ダンマパダ』には次の文もあります。
はげみをもって、放逸を退けし人は、心に憂いなくし、やすらぎをえる。
放逸は不放逸の状態の反対。
私も反省するところですが、放逸であることはいかんのです。
常に正しく気づき、正しいあり方、行為をするようにいる、常にマインドフルネスでいて、正しいあり方、行為をするようにいれば憂うことはなく、やすらぎにいられます。
禅における「不放逸」
禅宗では作業などの始まりや終わりの時を、木の板「木版」(もっぱん/もくはん)を木槌でたたいて音で知らせますが、次のように書かれている木版があります。
生死事大 無常迅速 各宜覚醒 慎勿放逸
読み方は 「生死事大 無常迅速 各宜しく覚醒し 慎んで放逸する事勿れ」
(しょうじじだい、むじょうじんそく、おのおのよろしくかくせいし、つつしんでほういつすることなかれ)
私の不放逸、大失敗
私が修行した僧堂では、夜にする坐禅、夜坐の終わりに、順番の担当の者が、この木版を叩き、この文を大きな声で唱えることになっていました。
私にも順番が回ってきました。私は日中に時間があるとき練習をして「もうできる」と思い、その時に臨みました。
しかし大、大失敗。
日中と違って夜坐の時、木版のある場所は薄暗く木版に書かれている文字がほとんど見えない。しっかり文を覚えていなかった私はしどろもどろになり、声は小さく、禅堂の中、単に坐している人たちに届かない…大、大失敗
板橋禅師を先頭に禅堂から出てきた副住職、先輩の雲水たち、同期の雲水たち。禅師様は怪訝な顔で私を見られ、皆さんは無言で私の顔を見て、そして歩いていかれました。
全国800万人の信徒、1万4千ちかい寺院のある曹洞宗の元管長、トップであられた板橋興宗禅師です。私は禅師様に得度していただき僧になり禅師様の元で修行しました。
そして次の日になると、練習して良しと言われた者でなければ、そのことはしてはならないとのお達しがありました。
いいかげんな準備で、いいかげんなことをした私は「不放逸」そのものでした。
慚愧の念に押しつぶされそうにもなりながら、その日から私はわずかにできた時間でもあれば、ひたすら木版を叩き、その文を唱え、練習を重ねました。
文は独特の抑揚、音階などをつけて読まなければならないのですが、音痴な私はそれがなかなかできない。そんな私を繰り返し先輩が細かく細かく指導してくださいました。
その先輩は今は音楽を使って仏教を広めておられる人で、音楽のプロなので、私の抑揚や音階などの間違いを的確にご指導くださいました。
そうして数カ月後、また夜坐で、木版を叩き、この文を唱える順番のときがやってきました。してもよいとお許しをいただきました。
木版を叩く、ひとたたき、ひとたたきに集中し、文の一言一言に集中して、腹の底から文を唱えました。
禅堂から皆さんが出てきました。
禅師様が微笑みを浮かべておられて、一言「大きな声がでるねぇ」。他の方々も微笑みを浮かべて私を見てくださり、そして歩いて行かれました。
生死事大 無常迅速 各宜しく覚醒し 慎んで放逸する事勿れ
しょうじじだい、むじょうじんそく、おのおのよろしくかくせいし、つつしんで、ほういつすることなかれぇ
お釈迦様の遺言
比丘たち、今、あなたたちに伝える。諸行は無常である。
怠ることなく修行を完成なさい。
私は、僧堂生活中、上手にできたあの日以後も、不放逸、怠けていると感じるたびに、一人、木版を叩き、この文を大きな声で唱えるようにして僧堂修行をしていましたが、不放逸、今もできていないことがあると自戒する日々です。
2020年7月5日、板橋禅師が遷化なさいました。亡くなりました。
禅師様に初めてお会いしたときのことから、得度していただいた日、僧堂で修行していたときの禅師様が瞼に浮かんできます。涙があふれてきます。
禅師様、ありがとうございました。