慈悲の瞑想の本来と違うやり方と危険性、リスク。あなたは大丈夫?

from 瑞雲信人

慈悲の瞑想で、本来とは違うものを慈悲の瞑想と言う人が出てくるようになりました。

商標登録されているようなものではないのでどう呼ぶかは自由なのでしょう。ただ、それらに危険性やリスクがあることが気になります。

禅僧として修行して慈悲の瞑想の本場のミャンマーで修行して、瞑想の講座をしていて、心理カウンセラーの私は、実際にその危険性やリスクを目の当たりにもしているので気になります。

本来とは違う慈悲の瞑想の危険性やリスク

心理的・社会的に重たいことまであります。

しても慈悲の瞑想にならない、かん違いの元になるリスク

まず根本的なこととして、本来の慈悲の瞑想ではないもののやり方は、しても「慈悲」の瞑想になりません。慈悲の心が養われるやり方ではなく別の目的のためのやり方になっているので、取組んでも慈悲の心を養えるのではなくその目的の効果になるのです。

そして、本来の慈悲の瞑想ではないもののやり方を「これは慈悲の瞑想」と思って取組んで慈悲とはこんなことと思うようになると、慈悲の本当の意味・価値をカン違いしてしまうことになります。

本来とは違うものの元はいずれもアメリカ発祥の特定の効用目的のためにつくられたものですが、慈悲は仏教者の最重要なテーマで禅の雲水でもある私としてはこのカン違いをする人が増えることはとても残念に感じます。なお、このカン違いについては後でまたお話しします。

マイナス感情に苦しむことになる危険性

慈悲の瞑想をしてどうしてマイナス感情で苦しむことにならないといけないのかと思いますが、私の瞑想の講座を受講する前に実際になっていた人もいました。慈悲の瞑想を本来のやり方にして、他の瞑想とともに取組むようにして状態を改善しましたが、こんなようになる人がいることは残念です。

本来の慈悲の瞑想とは違って本来のものでないものは、瞑想中に意図的に具体的に特定の人物を思い浮かべ、その人物への自分の意識をコントロールして持つようにします。自分がマイナス感情を持っている相手、自分に害を加えた人まで許すことなどもする場合もあります。

そうすることはマイナス感情が大きく働き、怒りや悲しみや憎しみなどの感情が大きくわき上がってくることもあります。瞑想の後もその感情を引きずり苦しむようになる危険性があります。

イメージ療法や催眠療法をしていることになるリスク

他の人の声に誘導されて取組むことが多く、そのために催眠状態のようになることがあります。そもそもそうなるような言葉がけをして取組ませている場合もあります。私がマインドフルネス瞑想のあるオンライン実践会に参加したときにされたのもそうでした。

メンタルヘルスやストレスマネジメントなどに関係し自律訓練法を扱っている人がそうしていることが多いですが、私も以前、企業や官公庁などでそれらの研修講師として自律訓練法を扱っていたことがあるのでよく知っています。

言葉がけによって催眠状態のような状態になると、終わると、した人は言葉がけによって優しい気持ちになれた等と感じます。私が参加した会でも参加者がそのような感想を話していましたが、それは瞑想による効果というよりイメージ療法、催眠療法によってになっています。

イメージ療法とは

クライエントがもつ内的イメージを膨らませ活用する療法です。クライエントが活性化されたイメージを十分に体験することで気づきを得たり、精神的な解放感を体験するといった効果が得られます。(心理学用語の学習サイトより引用)

瞑想はイメージ療法や催眠療法とは違うものです。本来の慈悲の瞑想は催眠療法、イメージ療法と違うやり方だからこそ得られる効果・成果があります。

催眠状態のようになると危険も

自律訓練法は催眠療法の一つで、日本では安易に素人もさせていますが、ドイツではセラピストも自律訓練法を扱うときは専用の資格がいるもので、それは催眠状態になるものは安易にすると危険だからです。特に取組んだ後にその状態からしっかりと抜けることをする必要があります。

瞑想を催眠状態になるようなやり方でしたら催眠状態から抜けられなくなる危険があります。これは軽く考えないほうがいいです。

マインドコントロールに使われるリスク

「マインドコントロール」という言葉があります。ヨガや瞑想の会などは以前から新興宗教の団体などの勧誘に使われてきています。「自分は関係ない、平気」と思っていた人が困ることにもなっています。私の瞑想の講座の受講者に経験者がいました。

他の人の言葉に誘導されてするやり方の場合、誘導する人(操作者)が何らかの意図をもってマインドコントロールのように活用することもできなくはありません。

マインドコントロールとは

操作者からの影響や強制を気づかれないうち、他者の精神過程や行動を操作し、操作者の都合に合わせた特定の意思決定・行動へと誘導すること・技術・概念である(ウィキペディアより引用)

瞑想を習う時は習う前にどんなところ・人か、きちんと調べてからにすることが賢明です。

本来と違う慈悲の瞑想ごとのやり方と危険性・リスク

本来の慈悲の瞑想ではなくて慈悲の瞑想だと言ってされているものには2種類あります。もともと次が元のものです。

  • 「思いやりの心を育むプラクティス」系
  • 「愛と慈しみの瞑想」系

「思いやりの心を育むプラクティス」系はほとんど元のままで慈悲の瞑想と言われてされることがあり、「愛と慈しみの瞑想」系は全部そのままするととても長いので一部を借用して慈悲の瞑想と言ってしていることがあります。

なお、私はこれら自体を否定・批難しているのでも、これらをすることを否定・批難しているのでもないのでそう理解してください。

これらはそれぞれ目的を理解して適切な取組みをすれば、その目的のために良い効果があります。ただ本来の慈悲の瞑想ではないということと、気をつけないとリスク・危険があるということです。

「思いやりの心を育むプラクティス」系の場合

これがそのまま慈悲の瞑想と言って教えられていることがあります。多いです。ある時、インターネットで「慈悲の瞑想オンラインセミナー」とあったので中身を見てみると、思いやりの心を育むプラクティスそのもので、それだけで1カ月間程度で3万円近い料金になっていて驚きました。

「思いやりの心を育むプラクティス」は書籍『グーグルのマインドフルネス革命』に載っています。

グーグルのマインドフルネス革命

以下、本からやり方を転載して紹介します。

  1. まず、今日あなたが出会った人の中で、楽しい会話をしたお気に入りの人を、心の中で思い浮かべましょう。もし、今日楽しい会話をした人がいなければ、昨日、一昨日とさかのぼっていただいて構いません。
  1. 心の中に、その人を思い浮かべたら、心の中で、次の言葉を言ってみましょう。
    • この人は、心と身体を持っています。わたしと同じです
    • この人には、気持ちや感情、考えがあります。わたしと同じです
    • この人は、悲しんだり、がったりしたり、怒ったり、混乱したりすることがあります。わたしと同じです
    • この人は、人生において肉体的、心理的な苦しみを経験しています。わたしと同じです
    • この人は、人生において喜び、幸せ、愛を経験しています。わたしと同じです
    • この人は、幸せになりたいと思っています。わたしと同じです
    • この人が幸せでありますように
  1. では、そっと目を開けてください。これで終了です。

慈悲との違い

「わたしと同じです」というやり方になっています。「わたしと同じです」は慈悲とは違います。

慈悲は、他者を自分と同じと思ったり考えるのではなく、違いをそのまま受容し分け隔てなく慈悲の心をもち、慈悲の行為をします。楽しい会話をしたお気に入りの人という限定もなく、違う考え方・感じ方・あり方の人、すべての生きとし生けるものに等しく向けられるものです。

慈悲については次の関連記事を参考にしてください。

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心理的なリスク

人によってはこのように特定の他者を対象にすること、他者を自分と同じと思うことは心理的プレッシャーになる場合があります。「楽しい会話をした人を思い浮かべる」という時点で、そういう人がいないという人もいます。

また、これは個人主義傾向の強いアメリカでつくられて広まったものですが、日本人の場合は協調性や相手のことを考えよということがアメリカとは異なり強い社会傾向があり、その傾向のために自分を抑圧してメンタルが病む人も少なくありません。

人格的な問題

「わたしと同じです」することは、ある意味、人の多様性を無視していることになります。「わたしと同じです」は自分視点でもあります。人格的に高くなるということはそうでしょうか。

上記で慈悲について書きましたが、人格者は他者を自分と同じと思ったり考えるのではなく、違いをそのまま受容し慈悲の心を持ち、分け隔てなく慈悲の心をもち、行為をします。このやり方は特定の効用のために有効ですので、するとしたらそのように理解してするのがよいのではないかと思います。

「愛と慈しみの瞑想」系の場合

これを模ほうしたようなものが慈悲の瞑想と言われて誘導でされていることがありますが、こちらはしっかり留意しないと心理的な高いリスク・危険性があります。

近年のマインドフルネス瞑想の流行の発端は、アメリカのマサチューセッツ工科大学のジョン・カバットジン教授が、ストレス緩和のクリニックではじめた、禅の坐禅と本来のマインドフルネスの瞑想のヴィパッサナー瞑想を加工してつくったマインドフルネスストレス低減法です。

教授の著書『マインドフルネスストレス低減法』に「愛と慈しみの瞑想」という瞑想が掲載されています。愛と慈しみの瞑想自体の出だしは次になります。(本から転載します)

心が落ちついたら、意識的に自分自身に対する愛や慈しみの感情を呼び起こします。

心の中で自分自身にこんなふうに言い聞かせてください。

「怒りや憎しみの感情から自由になれますように、そして、私に対する同情や慈しみの気持ちでいっぱいになりますように」

愛と慈しみの瞑想は、このように、自分に言い聞かせて意図的に意識づけをしたり、意識を変えることをしていきますが、最初のこの段階でも、できないという人が少なくないでしょう。

そして、次のような部分もあります。

今度は、特に関係がうまくいっていない人、 たとえば憎しみを感じているような人を思い浮かべて、その人に対して、意識的に慈しみ、寛大さ、同情の気持ちを向け、嫌いだという感情や怒りをとき放つようにします。

そして、その人を、感情をもち、痛みや不安や悩みをかかえる一個の存在として、愛や慈しみを受けるに値する人間として見るようにします。

もし、その人があなたを傷つけた人間だったとしたら、心の中で意図的にその人を許し、怒りや憎しみの感情をとき放ち、自分だけが正しいというような感情をとき放ってください。

憎しみを感じているような人を思い浮かべて…、このようにすることはどうでしょう。意識を様々に変化させて、それも心理的ハードルの高いことで進めていくので、大きく感情が動きます。ですからリスクや危険性は低くはありません。

心理的にもサポートできる人の元でないと危険でもありますが、マインドフルネスストレス低減法は、もともと医療クリニックで行うためのものにつくられたので、療法的なものになっていると感じます。

そして、これを模ほうして慈悲の瞑想と言われているものも同様にリスクや危険性がありますが、安易に行われているように感じます。

私の瞑想の講座を受講するようになった人にも、これを体験したことがあって「大変だった、辛かった」という人がいます。

愛と慈しみの瞑想の全体のやり方は次の記事で紹介してあります。

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まとめ

この記事は、思いやりを育むエクサイズや愛と慈しみの瞑想、それらを模ほうした瞑想をすることが悪いという記事ではありません。違うものが慈悲の瞑想として教えられている場合があるということと、それにはリスクや危険性もあるという説明です。

慈悲の瞑想は素晴らしい瞑想ですから、ぜひ、取組んでほしいです。私の場合は、次の理由で本来の慈悲の瞑想に取組むことをお勧めします。

  • シンプルで、誘導されることなく、いつでも取組めて
  • 危険性がなく、リスクがなく安心で
  • 効果は確かで高く、本来のものだから

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