慈悲の瞑想は「私」が主語の文章が一番重要ですか? 質問をいただきました。
慈悲の瞑想は文章を心の中でや声に出して唱えますが、その中に「私」を主語にする文があるものがあります。そして「私を主語にする文がちゃんとできないとだめなのですか」と質問をいただきました。
その人が、なぜ質問してきたのかというと、インターネットに一番大切、土台と書いてある情報があったらということでした。そうなんです、そういう情報もあります。
慈悲の瞑想は「私」が主語の文が最重要という問題・リスク
そして、質問をなさってきた人は「私」を主語にして慈悲の文を唱えると抵抗を感じるからでした。
実は違和感・抵抗感を感じる人はけっこういます。私は多くの人が取り組むのを見てきて、指導もしてきて、そう感じる人がいることをよく知っています。ですから「私」が主語の文が最重要で土台という論はそういう人を困らます。
なので、私の瞑想の講座では、このリスクを考慮して、誰れでも慈悲の瞑想をできるようにていねいにお教えしています。
論は本当はどうか検証してみました
本当はどうなのでしょう。
慈悲の瞑想はスリランカやミャンマーなどの上座部仏教が守り実践してきた瞑想の1つです。
論で使われている慈悲の瞑想の文章
「私」を主語にする文が最重要で土台という論の場合の慈悲の瞑想の文章で代表的なのは、スリランカのスマナラサーラ長老の次の文章のものです。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとがかなえられますように
私に悟りの光が現れますように
(以上1回)
私は幸せでありますように
(3回繰り返す)
いくらか文言を変えている場合もありますが、この文を主語を「私」「私の親しい人々」「生きとし生けるもの」「私の嫌いな人々」「私を嫌っている人々」の順で唱えます。
他の慈悲の瞑想の文章の場合は「私」の主語がない
次の関連記事の慈悲の瞑想のやり方・方法で、上座部仏教の文章を上記を含めて3種類紹介していますが、上記以外の2つの場合には「私」の主語はありません。
つまり「私」を主語にすることは必須ではありません。
<関連記事>
関連記事からその2つを再掲します。
ゴエンカ式の慈悲の瞑想の文章
すべての人びとが、苦しみから解放されますように
真の平安、真の調和、真の幸福を享受することができますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
(参照 日本ヴィパッサナー協会)
チャンミェ・サヤドーの慈悲の瞑想の文章
チャンミェ・サヤドーは、テーラワーダ仏教のミャンマーの大長老です。ヴィパッサナー瞑想として最も代表的な方法のマハーシ式のマハーシ・サヤドーの高弟の大長老です。
すべての生命が幸せで安穏でありますように
すべての生命が憎しみや敵意から逃れられますように
すべての生命が病気や危険から逃れられますように
すべての生命が心と身体の苦しみから逃れられますように
ゴエンカ式もチャンミェ・サヤドーも大変由緒がありますが、「私」が主語という文はありません。
慈悲の瞑想の元「慈経」からも違う
慈悲の瞑想には「慈経」という元があります。
次の関連記事に日本語訳、原文も紹介してありますが、慈経から考えても「私」を主語にした慈悲の文を唱えないといけないということになりません。
<関連記事>
そもそも仏教はと考えてみると
仏教で重要なのは「私」ということへの執着から脱することです。
「自他不二」と自分と他は別のものではない、自らが救済される前にまず他を救済するという「自未得度先他」の言葉もあります。
そういう仏教で、自分ファーストで、「私」を主語にして自分が幸せにるように等と唱えることが一番重要、土台でしょうか。
まとめ
以上のように、慈悲の瞑想をいろいろな主語がある文章で取組むとき、「私」が主語が最重要、土台という論はあまり根拠があることではないようです。
これは、「自分を愛せないと人を愛せない」というようなことをいう場合がありますが、そのような考え方と関連しているのでしょうか。
私は、このホームページのトップへ―ジでお話ししていますが、離婚して鬱病になり四歳の娘と頼れる人が誰もいなくて二人暮らしになり、経済的にもどん底のくらしになったことがあります。
自分をとことん否定していました。愛していませんでした。でも、娘を心から大切に思い、そのように一所懸命に過ごすことで、娘に「パパ大好き」とも言われて、心は癒され変わり、自分を認め愛せるようになりました。
愛の心、慈悲の心が養われるのは、まず自分に対してからか人に対してからか、私は人それぞれ状況によって順番は様々だと思います。動物や植物などを愛でることでもいいのではないでしょうか。
核は「生きとし生けるもの」
慈悲の瞑想の核は「生きとし生けるもの」が主語の文です。
関連記事から転載した2つの文は「すべての人びと」「すべての生命」と訳されていたりしますが、要は「生きとし生けるもの」です。慈悲の瞑想の元「慈経」を見ていただいても「生きとし生けるもの」という言葉が出てきます。
そして、論で使われている慈悲の瞑想の文章の「私」も「私の親しい人々」も「私の嫌いな人々」「私を嫌っている人々」も生きとし生けるものです。
仏教、ブッダの瞑想に取組んでいると実際に「私」という観念がしだいに薄れ、分け隔ての意識がなくなり、そういう主語が意味をなさないようにもなってきます。
「私」は主語も工夫をすればだいじょうぶ
もしも「私」を主語にする文も唱えたい場合は、違和感・抵抗感を薄くする方法があります。
また、慈悲の瞑想は気づきの瞑想と共に取組むようにすることが本来ですが、気づきの瞑想との関係で「私」を主語にしても違和感・抵抗感をなくせる方法があります。
なので、私の瞑想の講座では、この2つの方法により慈悲の瞑想を習得できるようにしています。
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