私は、子どもの頃から親子関係も複雑で、いつも人との関わりに不安でいて、過敏性腸症候群を抱え、高校生のときにはパニック障害、社会人になってメニエールにもなっていました。
1度目の結婚も2度目の結婚も上手くいかず、2001年に2度目の離婚をして、当時3歳になったばかりの娘と二人きりの暮らしになり、鬱病になりました。
娘との生活を続けるか、娘を一時、施設に預けて会社の経営を続けるかの二者択一になりました。娘と離れがたく、会社を閉めることを選ぶと、自己破産ということになりました。
生活も心もドン底の思い
資産は没収されて、会社を閉めて仕事もなく、経済的な不安と鬱病に苦しみました。娘には3食をどうにか食べさせていましたか、私は娘が残せば食べられる状況にもなりました。
耐えるため、誰の眼もない部屋にいると危ないと、毎日、日に幾度も、近所のお寺に行って、何度もお参りをして、境内のベンチでうつむいていました。
私の心は、「私はOKじゃない」「私はOKじゃない」、そして「社会もOKじゃない」と、マイナスの思考と感情でパンパンになり、固く固く冷たくなっていきました。
そんな私が、あることを始めると変わり始めました
それは、あとから正式に心理療法、カウンセリングを学んでわかりましだか、心理療法、カウンセリングのノウハウに合致している方法でした。
1つは、ステップ5で学ぶ「自我状態」をチェンジすることに関わることで、もう1つは、前ページの講義で学びましたが、自分で肯定的な存在認知をコントロールすることでした。
否定的な存在認知の蓄積
私の中には、子どもの頃からの親との関係で、否定的な存在認知が多く蓄積されていました。
そういう私の人生態度が引き寄せた二人の奥さんは、否定的な存在認知をさらに私が受ける関係性の相手でした。私が引き寄せたのです。結果、さらに私には否定的な存在認知が蓄積しました。
鬱病になったのもそれが影響していて、鬱病になって破産して、娘を育てていくことに非力さも感じて、私は自分で自分自身にさらに否定的な存在認知を蓄積していました。
肯定的な存在認知、肯定的な存在認知、肯定的な存在認知……
そんな私が、ある日、うつむいていたベンチから、スクッと立ち上がった時から、プラスに変わり始めました。
何かが吹っ切れたように私が始めたのは、日常の中で、自分で自分に肯定的な存在認知を、とにかくできるだけ送ることでした。毎日毎日、暮らしの中で、私はし続けました。
どうして、これらの方法を思いついたのかわかりません。かつて、何かの本で目にしていたのかもしれませんが、実はちょうどその前頃に、お寺でお参りをしていて、聞えたような声がありました。
いや、怪しがられるので「ような」と言いましたが、私にははっきりと聞こえたのです。
本堂に向かって、目をつむり手を合わせていると
お前に越えられないことは、与えない
この声も、私には、自分の可能性を無条件に認められたような、大きな肯定的な存在認知でした。
私に、越えられないことない
私に、越えられないことない
私に、越えられないことない
私は、心の中でこの言葉を繰り返すようになり
そして、次のページから紹介する方法を、毎日毎日、日常の中で、そうすることが当たり前のように繰り返しました。
ぜひ、次のページからの方法をとり入れていってみてください。