仏教では慈悲が大切です。慈悲の瞑想に取組む上でも慈悲とはどういうことか学びましょう。そして日常で慈悲を心がけていきましょう。
慈悲は四無量心のセット
正しい慈悲の心づかい、言動をできるように釈迦・ブッダは説いていました。それが四無量心(しむりょうしん)です。慈悲は四無量心の四つの心で本物になります。
最勝の心「四無量心」と言われ、四つの心をあらゆる人に制限なく分けへだてなく持つようにとあり、四つは「慈・悲・喜・捨」(じひきしゃ)です。それぞれの意味は次になります。
- 慈:あらゆる人に友愛の心、安楽を与えようという心を限りなく起こす
- 悲:あらゆる人の苦しみをなくしてあげたいという心を限りなく起こす
- 喜:あらゆる人の喜びを自分の喜びとして喜ぶ心を限りなく起こす
- 捨:あらゆる人に無条件で差別なく、かたよりなく、平静な心を限りなく起こす
この四無量心のセットとして考えるとどうでしょう。
自分が不快に思う人や反感を感じる人に対してどうでしょう。自分に対し不快に感じる言動をした人や自分の立場をおびやかすような人などにはどうでしょう。そうではない人に対するようにいられているでしょうか。
慈悲、慈悲喜捨はすべて分け隔てなく「あらゆる人」です。捨でさらに「無条件で差別なく、偏りなく平静な心」です。
自分の快・不快で反応して、反応のままの評価・判断をもとに言動していることに気がつかずにいて、分け隔てをしていたら、慈悲としてはだめです。
慈経(慈しみの経)
そして、慈悲に関しての古くからの経典・慈経があります。
慈経は「Metta sutta(メッタ・スッタ)」と言い日本語に直訳すると「慈しみの経」。私は禅の僧堂修行生活の後、ミャンマーで修行しましたが、ミャンマーなど南アジアの上座部仏教で般若心経のように僧を始め一般の人々にも日々読まれている経です。
10の偈頌(げじゅ)でできている小さな経で、釈迦・ブッダの言葉を記したと言われている『スッタニパータ』の第1章第8経として収められています。
義務、なすべきことを意味するKaraṇīya(カラニーヤ)をつけKaraṇīya mettha sutta(カラニーヤ メッタ スッタ)とも呼ばれ、解脱に達することを望む者、解脱に達した者はいかに生きるべきか、人はいかに生きるべきかを説き、生きとし生けるものすべてに慈しみの心をもって生きよと説いています。
慈経も慈悲の瞑想も唱えるだけでなく
そして慈経は経の内容のように、実際に慈しみをもって生きる者は諸々の危難がなく多大な功徳があると強調され、ただ唱えるだけでなく説かれる内容を実現しようと努力することが重視されます。
慈悲の瞑想も同じです。元の慈経に書かれていることを日常で心がけ、ありかた、言動とすることで、日々の暮らし、人生が良くなっていきます。
実践する日常の項目
経文の内容からポイントを説明すると、次のように実践する人は、邪見を乗り越えて、常に悪しきことから離れ、正見を得て、諸々の欲望に対する執着をなくして解脱を得ると書かれています。より良い人生を生きられるということです。
- まっすぐ、しなやかに
- 人の言葉をよく聞き、柔和で、高慢でないように
- 足ることを知り、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いているように
- 賢明で裏表なく
- 智慧のある識者が批判するような過ちを犯さないように
- どんな場合も、人をあざむいたり、軽んじたりしない
- 怒鳴ったり、腹を立てたり、人の苦しみを望まない
- すべての生命に対し無量の慈しみの心を育てる
- 上に下に、周りに、いかなる生命に対しても、わだかまりのない、恨みのない、敵意のない心を育てる
- どんなときも、慈悲の念をしっかり保つ
慈経の全文‐日本語訳と原文
参考に慈経の全文も紹介します。日本語訳は2種類を紹介します。
中村元氏の日本語訳
中村元氏は現存する最も古い仏典が書かれたサンスクリット語・パーリ語に精通し、多くの初期頃の仏典などの解説や翻訳の著書がある国際的な仏教学者です。
(以下「ブッダの人と思想」より転載)
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、真く、正しく、言葉やさしく、柔和で思いあがることのない者であらねばならぬ
足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、もろもろの感官が静まり、高ぶることなく、もろもろの人の家で貪ることがない
ほかの識者の非難を受けるような下劣な行ないを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ
いかなる生物生類であっても、おびえているものでも強剛なものでも、ことごとく、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸せであれ
なんびとも他人をあざむいてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行なうべし
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいるかぎりは、この慈しみの心づかいをしっかりと保て。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ
もろもろの邪な見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきをそなえて、もろもろの欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう
スマナサーラ長老の日本語訳
アルボムッレ・スマナサーラ長老はスリランカの僧で1980年に留学生として来日して駒澤大学大学院で道元の思想を研究し、1991年に再来日して日本に在住しています。
(以下「ブッダの日常読誦経典」より転載)
解脱という目的をよくわきまえた人が静かな場所へ行ってなすべきことがあります。何事にもすぐれ、しっかりしていて、まっすぐでしなやかなで、人の言葉をよく聞き柔和で高慢でない人になるように。
足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いていて、賢明で、裏表がなく、在家に執着しないように。
智慧のある識者たちが批判するような、どんな小さな過ちも犯さないように。幸福で平安でありますように。生きとし生けるものが幸せでありますように。
いかなる生命であろうともことごとく、動き回っているものでも、動き回らないものでも、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも。
見たことがあるものもないものも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、既に生まれているものも、卵など、これから生まれようとしているものも、生きとし生けるものが幸せでありますように。
どんな場合でも、ひとをあざむいたり、軽んじたりしてはいけません。怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いにひとの苦しみを望んではいけません。
あたかも母が、たった一人の我が子を、命がけで守るように、そのようにすべての生命に対しても、無量の慈しみの心を育ててください。
慈しみの心を一切世間(すべての生命)に対して、限りなく育ててください。上に、下に、横(周り)に棲むいかなる生命に対しても、わだかまりのない、恨みのない、敵意のない心を育ててください。
立っている時も歩いている時も坐っている時も、あるいは横になっていても眠っていない限り、この慈悲の念をしっかり保ってください。これが梵天(崇高なもの)の生き方であると言われています。
このように実践する人は邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、諸々の欲望に対する執着をなくし、もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。