参考

教理で他者の評価・断定はしない

ここまで仏教について学び、仏教の瞑想に取組んできていますが、このページと次のページの講義は仏教・宗教への造詣が深くなってきたときの大事な注意です。

人に対してその言動に、例えば「あなたは執着がある、執着している」等と評価して断定的に言うのを見聞きしますが、そういうことは善くありません。

また、前ページの「業」の説明でふれましたが、他者のことを自業自得だと思ったり言ったり、どうしてあの人は悪いことをしたのに悪い報いを受けないんだと思うこと言うことも善くありません。

他者の発している言葉の本当のニュアンス、思いは理解できていない場合がほとんどです。対面ではなくSNSの文章ならなおさらそうです。他者の全てを知ることはできません。それで他者を評価して断定することは不遜であり傲慢です。

また人に自業自得とか、悪い報いを願うのは慈悲の心に全く反していることです。

仏教は己事究明、自己改革のため

そして、仏教は、他者を評価や判断するためのものではありません。

仏教は「己事究明」と言って自分自身を明らかにする、そして変えるためのものです。自己分析・自己改革の実践道であり、常に気づくべきは自分と自分の心です。もし他者を評価する思考が自分に現れたら、それにすぐ気づくのがすべきことです。

自己反省第一主義

ブッダのことばを見ると例えば

ダンマパダ50

他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

参考にキリスト教でも重要な教えとなっていて新約聖書に次のように書かれています。

マタイによる福音書7章

さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちり(塵)に目をつけるが、自分の目の中の梁(丸太)には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

異見、批判を言うことはあり

さて、他者の意見や考えに異なる自分の意見を言うのは悪いことではありません。

仏教は批判しないものと思われていることがあり、そうすると批判・非難されることがありますが、ブッダも比べて判断した意見・批判を言っていました。例えばブッダはバラモン教についてそうしています。そうでなければ仏教は発生しませんでした。

また例えば、部派仏教は部派同士で批判し合い熱く論説を戦わせていましたが、大乗仏教が起きたのも「空」が仏教で大きく取り扱われるようになって、今、私たちが目にするのも、龍樹が部派仏教の説一切有部の説を批判したからです。

また例えば、守るべきという場で八正道の戒に反している行為が明らかにされているときなどに、見て見ぬふりをすること、そのままにただ済ますのは善いことではありません。その行為をしている人の気づきを助けることは慈悲でもあります。

その異見、批判の目的は?

人間は、自分のほうが正しい、物知りだ等々、自分の優位性のためという心理が働くことがありますが、そういうことではすべきではありません。

相手のため、その場の人たち、社会の平安、幸福のためになるであろうということを、そういう姿勢と表現ですることが肝要です。

人格批判ではなく事柄批判

意見を言葉にするとき、そこで取り扱われている事柄について自分の判断や知識を言葉にする事柄批判と、そうでなく、そこで意見を言葉にしている人、扱われている人に対しての評価を言葉にする人格批判がありますが、人格批判はせずに事柄批判をします。

「あなたは〇〇な人だ」「あなたは不快だ」というのや「あなたは執着している」ということなども人格批判になります。なお、人格批判やテーマ、論点が違うことをわざと言葉にして、人を惑わす手法をとることも行われますが注意しましょう。

質問形で

また、ブッダがたびたびしていたのは質問形での関わりかたです。

例えば、弟子に教理を説くときも次のような会話をされています。

ブッダ:修行僧らよ、汝らはどのように考えるか。物質的なかたちは常住であるか、あるいは無常であるか

修行僧:物質的なかたちは無常です

ブッダ:では無常なるものは苦しいか、あるいは楽しいか

修行僧:苦しいのであります

ブッダ:では無常であり苦しみであって壊滅する本性のあるものを、どうして「これがわがものである」「これはわれである」「これはわが我である」と見なしてよいだろうか