ちまたに出回っている情報、見た感じの良い人、人当たりの良い人、知識の多い人、地位の高い人、有名人、著名人などの話を信じる。そういう傾向はないですか。ブッダはそういう傾向があることへの注意を説いていました。
ブッダは、事実や本質ではないことに惑わされずに、きちんと判断する大事さを常々説いていました。例えばカーラーマ経として伝えられていることがあり、 現代でも通じる大事なことです。
ブッダが、村民がカーラマーラと呼び習わされていたコーサラ王国のケーサプッタという村を訪れたときのこと。村民たちがこう言います。
師よ、さまざまな修行者やバラモンが訪れます。彼らは自らの教義だけを説明して、他の教義を軽蔑して糾弾したり、あなどります。
そのあとで、また別の修行者やバラモンが訪れ、同じように自らの教義だけを説明して、他の教義を軽蔑して糾弾したり、あなどります。
師よ、私たちは、こうした尊い修行者やバラモンのうち誰が真実を語り、誰が偽りを語っているのかわからず、いつも戸惑っています。
ブッダが答えます。
疑うのが当然
あななたちが疑い、戸惑うのは当然である。なぜなら、あなたたちは疑わしい事柄に疑いを抱いたのであるから。
まず、ブッダは疑いを持つことを肯定します。良しとします。
そして、次によって安易に惑わされて信じてはいけないと言います。
安易に惑わされてはいけないこと
- 伝統があるから
- 人から伝え聞いた
- 世間のとりざた、うわさ
- 権威がある正典・本に書かれている
- 経験によらず頭の中で理性で考えたこと
- 単なる推理・推論
- 外観・様相
- 自分の考え・思いに一致するからと
- 伝えている人が堪能、格好が良いからと
- これが師であるからと
詐欺にあうのもこれらによってであることがわかるはずです。自分が物事や人をこのような点から良い悪い、正しい正しくない、価値があるないなど判断していなか気をつけましょう。
ブッダであろうとも
ブッダは自分が言うこともすぐ受け入れるのではなく、きちんと吟味しなさいと言っています。
修行者は自らが師事する人の真価を十分に得心するために、ブッダのことも吟味すべきである
ブッダは、各自が自分で知り考え、体験して真理を実現、智慧を得ることを重視していました。
聞、思、修の三レベルの智慧
仏教では智慧を「聞慧‐聞所成智慧」「思慧‐思惟所成智慧」「修慧‐修習所成智慧」の三種類として考えます。
- 聞慧は、教えを聞いて了解する智慧
- 思慧は、道理を思惟して生ずる智慧
- 修慧は、瞑想・修習して体得する正しい智慧
聞慧は情報として知っている、思慧は知った情報をもとに自分で考えてもった意見、修慧はさらに修行実践し体験したことによって会得する智慧のレベルです。
聞慧、思慧は悟りのレべルではないため智慧というより知識及び知恵とも言え人格的に確かなものには至らず、修慧まで得ることが重要とされます。
修慧を得るためにはブッダやブッダの弟子たちがそうしたように、それなりの瞑想と日常の瞑想的な取組みが必要です。瞑想とは日常の普通では足りない体験を集中的に体験する取組みになります。
聞慧のために知識を取り過ぎる、思慧のために思惟をしすぎると、頭でっかちとなり、かえって修慧の弊害となるとも言われます。ですから、まず概要的な知識を得て、それを思惟、そして瞑想に取組み瞑想による体験も起きるようになって、知識の取得や思惟を並行していくようにしていきます。