ヴィパッサナー瞑想は、日常生活で気づき、メタ認知=自分への客観的な認識をできるようになり、より良いありかたをできるようになることで、清浄行、自己浄化を可能にするものです。
そして、仏教では煩悩を克服していこうと説きます。
そこで煩悩について学んで、日常で自分に現れたら気づけるようになりましょう。気づくことが煩悩の克服につながります。
煩悩は「汚れ」
煩悩は、ダンマパダでは「汚れ(けがれ)」と表現されています。
ダンマパダ236
だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ、汚れをはらい、罪とががなければ、天の尊いところにいたるだろう。
ダンマパダ238
だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ、汚れをはらい、罪とががなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。
ダンマパダ239
聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし。
ダンマパダ240
ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
三毒
三毒は煩悩を毒であるとして、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な煩悩で「貪・瞋・癡(とんじんち)」を指します。
アングッタラ・ニカーヤ
比丘たちよ、これら三つの不善の根がある。いかなる三つか。貪の不善根、瞋の不善根、痴の不善根である。
三毒に打ち負かされた状態で、身口意の行動を行うことは不善根であるとブッダは説いています。
三毒は三不善根であり悪の根源で、それが展開されて十悪となると言います。十悪(十不善業道)はステップ2の講義で学び日常で心がけてきている「十善戒」の否定、十善戒が破られることです。
サンユッタ・ニカーヤにはブッダがコーサラ国の王に言った次のことばがあります。
大王さま、三つの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦悩、不快適な暮らしとなるのです。その三つとは何であるのか?
貪りという性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦悩、不快適な暮らしとなるのです。また憎しみという性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦悩、不快適な暮らしとなるのです。迷妄は、人の内部に生じて、その人の不利、苦悩、不快適な暮らしとなるのです。
貪りと怒りと迷妄とが、己に生じると、悪心ある人を害する‐‐茎の細い植物が、実が生ると、害されて倒れるようなものである。
ここにある憎しみと怒りは瞋(じん)、迷妄は痴(ち)のことです。
貪(とん)
貪欲(とんよく):むさぼること、必要以上に求める心。好ましいと感じる・思うものをもっとという心
瞋(じん)
瞋恚(しんに):怒り、憎しみ、好ましくないと感じる・思うものを嫌う、排他的に思う心
痴(ち)
愚痴(ぐち):おろかさ、真理に対する無知の心、誤った見解による心
人間は何かを見たとき、聞いたとき、嗅いだとき、味わったとき、ふれたとき、考えたとき、普通、自覚せずにその対象に反応し、快・不快、良い悪いと感じたり判断しています。
そして、快(良い)と感じたり判断することから愛着や渇望、欲、貪りの貪(とん)の心が生じます。不快(悪い)と感じたり判断することから嫌悪や怒り、排他などの瞋(しん)の心が生じます。
ものごとの道理について正しい見解を持たずに感じたり判断することから、誤った見解の痴(ち)の心が生じます。
こうして対象に反応し快・不快、良い悪いと感じたり判断すること、誤った見解で感じたり判断することにより、心は汚れ、苦しむことになる原因になります。
三毒で誤解しやすいこと
貪(とん)=貪欲(とんよく)は、むさぼること、必要以上に求める心です。仏教というと「執着はいけない」と、何でもかんでも求める心はだめだと思われていることがありますがそうではなくて、貪ること、必要以上に求めることがいけない。
瞋(じん)=瞋恚(しんに)は、一般的には怒りとされていることが多いですが、自分の心が不快・嫌だと思う物事、状況、人をそのまま受け入れられない心ととらえておくとよいです。こう考えると良き気づきをいっそうできるようになれます。
癡=愚痴(ぐち)は、日本語の「愚痴をこぼす」のことではなく根源的な人間の愚かさのことです。
ヴィパッサナー瞑想と三毒
上記に、対象を快(良い)と感じたり判断することから貪(とん)の心が、不快(悪い)と感じたり判断することから瞋恚(しんに)の心が生じると説明があります。
つまり「快・不快」と感じたり判断したりするところから煩悩が生じますから、これに気づくことが煩悩の克服のポイントです。
このことは次のページの講義「六処」で詳しく学べますが、ヴィパッサナー瞑想の瞑想中、日常生活でヴィパッサナー瞑想の気づきを活かして、自分の心身に現れる快(良い)・不快(悪い)の感覚、思考や感情に気づけるようになっていくことが大切です。
ヴィパッサナー瞑想の繰り返しで、この段階の気づきができるようになることで、それ以降の煩悩にならずにすませることが可能になってきます。
例えば誰かの態度や言動に不快になったとき、「今、私の心に不快という反応が現れている」と気づくようになると、平静でいられるようになり煩悩を進めず、自分をコントロールできるようになって来ます。そうして自分のための自己理解・自己改善を図ることも可能になります。
そのほかの煩悩の分類
参考に紹介します。
根本煩悩
煩悩を次の6つに分けて根本煩悩や六隋眠と言うことがあります。
- 貪:むさぼりの心
- 瞋:怒りの心
- 痴:おろかな心
- 疑:不信の心
- 慢:他と比較して高ぶる心
- 見(悪見):こだわった物の見かた
十煩悩(十隋眠)
上記の根本煩悩の見を次の5つに分類して、合わせて10に分類することもあります。5つは前ページの「正しい見解、手放すべき見解」で学んだ手放すべき見解と同じです。
- 有身見(うしんけん)
- 辺執見(へんしつけん)
- 邪見(じゃけん)
- 見取見(けんじゅけん)
- 戒禁取見(かいこんじゅけん)
百八煩悩
日本では12月31日年越しに除夜の鐘を108つ撞きますが、これは108つの煩悩の数からという説があります。
除夜の鐘は中国の宋の時代の禅宗の寺院の習慣が元とされ、鎌倉時代以降に日本でも禅寺でこれにならって朝夕に鐘が撞かれるようになって、室町時代からは年越しに撞くようになりました。なお、浄土真宗の寺院は除夜の鐘は撞かないと一般にはされています。
108つの煩悩は、前ページの「仏教の歴史」で、インドの大乗仏教に唯識瑜伽行派が現れ天親が大成したと学びましたが、天親が著わした『倶舎論』に載っています。
参考に名前だけ紹介します。
- 苦締 貪
- 苦締 瞋
- 苦締 癡
- 苦締 慢
- 苦締 疑
- 苦締 有身見
- 苦締 辺執見
- 苦締 邪見
- 苦締 見取見
- 苦締 戒禁取見
- 集締 貪
- 集締 瞋
- 集締 癡
- 集締 慢
- 集締 疑
- 集締 邪見
- 集締 見取見
- 滅締 貪
- 滅締 瞋
- 滅締 癡
- 滅締 慢
- 滅締 疑
- 滅締 邪見
- 滅締 見取見
- 道締 貪
- 道締 瞋
- 道締 癡
- 道締 慢
- 道締 疑
- 道締 邪見
- 道締 見取見
- 道締 戒禁取見
- 色界苦締 貪
- 色界苦締 癡
- 色界苦締 慢
- 色界苦締 疑
- 色界苦締 有身見
- 色界苦締 辺執見
- 色界苦締 邪見
- 色界苦締 見取見
- 色界苦締 戒禁取見
- 色界集締 貪
- 色界集締 癡
- 色界集締 慢
- 色界集締 疑
- 色界集締 邪見
- 色界集締 見取見
- 色界滅締 貪
- 色界滅締 癡
- 色界滅締 慢
- 色界滅締 疑
- 色界滅締 邪見
- 色界滅締 見取見
- 色界道締 貪
- 色界道締 癡
- 色界道締 慢
- 色界道締 疑
- 色界道締 邪見
- 色界道締 見取見
- 色界道締 戒禁取見
- 無色界苦締 貪
- 無色界苦締 癡
- 無色界苦締 慢
- 無色界苦締 疑
- 無色界苦締 有身見
- 無色界苦締 辺執見
- 無色界苦締 邪見
- 無色界苦締 見取見
- 無色界苦締 戒禁取見
- 無色界集締 貪
- 無色界集締 癡
- 無色界集締 慢
- 無色界集締 疑
- 無色界集締 邪見
- 無色界集締 見取見
- 無色界滅締 貪
- 無色界滅締 癡
- 無色界滅締 慢
- 無色界滅締 疑
- 無色界滅締 邪見
- 無色界滅締 見取見
- 無色界道締 貪
- 無色界道締 癡
- 無色界道締 慢
- 無色界道締 疑
- 無色界道締 邪見
- 無色界道締 戒見取見
- 無色界道締 戒禁取見
- 修惑欲界 貪
- 修惑欲界 瞋
- 修惑欲界 癡
- 修惑欲界 慢
- 修惑色界 貪
- 修惑色界 癡
- 修惑色界 慢
- 修惑無色界 貪
- 修惑無色界 癡
- 修惑無色界 慢
- 十纏 無慚
- 十纏 無愧
- 十纏 嫉
- 十纏 慳
- 十纏 悔
- 十纏 眠
- 十纏 掉挙
- 十纏 惘沈
- 十纏 忿
- 十纏 覆