ヴィパッサナー瞑想は智慧の悟りと聖者の覚りの瞑想法です。かなり本格的で高度な話になりますがこのことも知っていると取組みに役立つと思いますので説明します。
ヴィバッサナー智の段階
物事の道理、苦からの解放の悟りがヴィパッサナー瞑想で洞察の智慧として現れで会得されヴッパッサナー智と言います。漢文では観智と言います。
考えて理解するのとは異なり、瞑想中にふっと直観的に現れ、疑う余地なくはっきりわかっている、自ずとそう悟っているというような状態になる、瞬間的に現れてくる悟りです。
13種のヴィパッサナー智
ヴッパッサナー智は、ヴィパッサナー瞑想の実践により段階的に現れます。
見清浄から智見清浄の手前の行道智見清浄まで、名色分離智から種姓智の13種類13段階となっています。
見清浄:名色分離智
度疑清浄:縁摂受智
道非道智見清浄:思惟智、生滅智
行道智見清浄:壊滅智、怖畏智、過患智、厭離智、脱欲智、省察智、行捨智、随順智、種姓智
考えて理解したことは実際的には活きてこなかったり活かせなかったり、忘れてしまうこともありますが、ヴッパッサナー智はそうではありません。
理屈で理解したのとは違って内的な変容をともうため、現れてからは悟ったことは身につき、その後の瞑想、日常の態度や反応等のベースとなります。
全てを説明するのはとても専門的になり、それだけで一冊の本になりますので、一般的に重要と考えられる1つ目から3つ目について少し説明します。
内面的な変容のことなので言葉で説明するのは難しいことですが参考に紹介します。
目指すことや分析はせずに取組むこと
なお、ヴィパッサナー智はヴィパッサナー瞑想に取組んでいくことで自然に現れてくるもので、取組むときに目指すようにはしないものです。
「このために」「こうなるように」と考えて取組むことや、瞑想中に自分の状況を当てはめて考察したりすると取組みと効果の妨げになります。
名色分離智
最初に現われるのは名色分離智(みょうしきぶんりち)です。名(みょう)は意識、心、色(しき)は体など物質的なもののことで、名と色を区別し識別する智慧、生きていて、あるのは名と色、そのプロセスの現象だけと悟っている智慧です。
すべてのヴィパッサナー智の基本の基本となる智慧なので、得られるようになるためにヴィパッサナー瞑想の正しい取組みを実践することが重要とされています。
正しい取組みの実践とは名と色をしっかり観察すること。ヴィパッサナー瞑想で自分の名=心の現象と、色=体・体の現象に気づきますが、そのことにしっかりと取組むことです。
正しい取組みで例えば坐る瞑想で腹部の膨らみ・縮みに気づきラベリングします。繰り返していると膨らみ・縮みという色=体の現象と、それに気づく心・ラベリングする名=心の現象は別と識別するようになります。そして色の体の現象も名の心の現象も現われ消えるプロセスのものとも知ります。
名=心と色=体は別のもので、例えば、何らかの対象を、色=体の目が見るという接触(関わり)をすることで、名=心の見ている、見ているものを認識する現象が生じます。そして、対象は色=体が接触する、名=心の受けとる、認識する現象がなければ、存在は確認されません、ありません。
つまり、存在とは実体としてあるというのではなく、色の体の現象と名の心の現象によるのです。物や出来事、自分も、色の体の器官がそれらに触れる(関わる)という色の体の現象があって、名のそれを認識する心の現象がなければわからない・存在しません。すべては色の体と名の心の現象です。
この色と名は別という理解、その特質と関係の理解を、考察や理屈でなくヴィパッサナー瞑想中に現れる洞察的理解として持ち、名と色を区別し識別する、見分けるようになる、あるのは色と名の現象だけと悟っているのが名色分離智(みょうしきぶんりち)です。
私の場合は歩く瞑想の最中に足という感覚がなく進む状態になり、サヤドーに報告すると「それは無我の境地になっていた」と教えられましたが、そうしてただの自然の動作のプロセスにすぎないと悟り、固定的な我が存るという概念、有見身、我見が破壊されました。
会得した名色分離智の名と色を区別し識別する、心の現象と体の現象を区別し識別する智慧とそれによる力は、今この瞬間に自分に起きている体験をありのまま真に正しく気づく・観ることを可能にする土台となります。
また、名色分離智は、真に出来事や自分に現われる現象に巻き込まれなくなること、すべて固定的な実体はないと悟ること、私・自分、自分のもの・私のものという誤った見解をなくし正しく気づけるようになること、執着をなくすこと等につながる土台となります。
縁摂受智
2番目に現れる洞察による智慧は、縁摂受智(えんせつじゅち、または、えんしょうじゅち)で、原因と結果、因果関係、因縁生起であると悟っている智慧です。
腹部の動きに気づきとラベリングをしていると「腹部が膨らみ、それに心が気づき・ラべリングする」「腹部が縮み、それに心が気づき・ラべリングする」と体験から知ります。また、腹部の動きがわからなくなるときがあると気づくこと・ラベリングすることができない体験をし「腹部の動きがあるときだけ心は気づく・ラベリングできる」と知ります。
名色分離智があれば体と心の現象を区別し識別するので、より明瞭に知ることは起きます。
歩く瞑想のレベル4などから「したい」と意図する心にラベリングしますが、この取組みを繰り返していくと、しだいに「したい」と意図する心が明瞭にわかるようになってきます。
そうなってくると、例えば「足を持ち上げたい心」と「足を持ち上げている動作」、「足を進めたい心」と「足を進めている動作」を別とはっきり区別するようになります。
さらに力が高まると、例えば、足を持ち上げたい心に「持ち上げたい」とラベリングすると自動的のように足が上がりはじめる、足を進めたい心に「進めたい」とラベリングすると自動的のように足が進みはじめる体験をするようになります。
こうして動作を起こしているのは「したい」「しよう」という心だと知るようになります。坐る瞑想の腹部の観察の場合は腹部の動作が原因でそれに気づく・ラべリングする心が結果として現れる。歩く瞑想の場合はしたいという心が原因で動作が結果として現れると知覚するようになります。
また日常で、例えば何かを持つとき持ちたい心や持とうという心が生じ、持つ動作が起きそれを持つ、さらに持つことによって持っている、持っているものへの認識が生じ、そこから軽いや重い等の思いが生じるなど、原因と結果のプロセスを知覚するようになります。
何かを見るとき、見たいという心や見ようとする心が生じて、そして見る動作が起きて見る、さらには見ることをすることによって認識、興味、感受…と原因と結果のプロセスがつながっていると知覚するようになってきます。
このようにして原因と結果、因果、因縁生起を知る縁摂受智が現れるようになってきます。
縁摂受智、原因と結果、因縁生起であると悟っている智慧とそれを知る力で、瞑想中の因果はより鮮明に知覚されるようになり、日常生活でもそうなってきて、原因があって結果があるという法則、因縁生起の中で生きているとわかりながら、いるようになってきます。
すべては原因と結果、因縁で今、生じていること・ものという悟りの智慧で判断すること、因縁を観ることにつながっていきます。
思惟智
3番目は、思惟智(しゆいち)で、すべては無常・苦・無我であると悟っている智慧です。
例えば、繰り返し腹部の動きを観察して気づき・ラベリングをしていると「膨らみのはじめ、膨らんでいく過程、膨らみの終わり」「縮みのはじめ、縮んでいく過程、縮みの終わり」を明瞭に気づくようになってきます。1回1回の膨らみの過程、縮みの過程の中に複数の動き、現われがあるとも気づくようになってきます。
歩く瞑想では「足の持ち上がりのはじめ、持ち上げている過程、その終わり」「足の進みはじめ、進めている過程、その終わり」と現象にさらに明瞭に気づくようになります。持ち上げている過程、進めている過程などの1回1回の過程の中に複数の動き、現れがあるとも気づくようになってきます。
一つの動きが現れて消え、次の動作が現れて消え、また次の動作が現れて…となっている、それにともなう心の現象も現れては消えていると明瞭に知覚するようになり、現象はすべて現われ生じて滅している、現われ消えるものと知るようになります。
体の現象も心の現象も、はじまりと途中と終わりがある、すべては生じ・はじまり、変化し、消滅・消える、「無常」ということの悟りが生じてくるようになります。
すべては無常であるということは、すべて消える、こうあってほしいと望んでいてもすべて変化し消えていくということ、すべては「苦」であるという悟りも生じてきます。
身体の存在が消えて歩いいているような無我の境地という状況の体験もするようになり、すべて固定的な実体のあるものはない「無我」の悟りも生じてきます。
このようなことから、思惟智、すべては無常・苦・無我であると悟っている智慧の洞察が現われます。会得した思惟智によって、瞑想中だけでなく、日常においても、すべては無常・苦・無我であると理解している力があって、いるようになります。
なお、思惟智は無常・苦・無我を「理解」をしているというレベルの智慧で、無常・苦・無我は、思惟智以降での過程と現れる洞察による智慧によって確信になります。
思惟智以降
思惟智以降は内容の説明はしません。ヴィバッサナー瞑想に取組んで、ここまでの洞察智を得てからでないと知識が邪魔をする可能性があるからです。
洞察智の名前は上記にもありますが、順に、生滅智、壊滅智、怖畏(ふい)智、過患(かかん)智、厭離(おんり)智、脱欲智、省察智、行捨(ぎょうしゃ)智、随順智、種姓(しゅせい)智です。
聖者の覚りの段階
そして種姓智を越えると聖者の覚りの4段階になります。預流道(よるどう)の預流果、一来道(いちらいどう)の一来果、不還道(ふげんどう)の不還果と進み、阿羅漢道(あらかんどう)の阿羅漢果で阿羅漢になり解脱、涅槃に到ります。
預流道の預流果
「我」という実体があるという有見身、儀礼儀式への執着という誤った見解である戒厳取が根絶やしになります。
一来道の一来果
欲界に1度だけ転生し、あとは梵天界、天界など高いレベルの世界に転生するようになれると言われています。
不還道の不還果
欲望、渇愛、怒りが完全に根絶やしになり、欲界に転生しなくなれると言われています。
阿羅漢道の阿羅漢果
阿羅漢はすべての心の汚れがなくなり心は完全に浄化され、すべての煩悩の火がふきけされて、悟りの智慧を完成した境地、迷いや悩みを離れた安らぎの境地、いっさいの苦・束縛・輪廻から解放された最高の解脱の境地になります。