坐禅のやり方は指導者によって違う? 本当は?

タイトルを見て「え?」と思ったでしょうか。

このページでは、坐禅のやり方が実際どのようされているのか、そして昔の坐禅の2つの奥義書ではどう書かれているのかを紹介します。

そして、最後に参考の推論をお話しします。

坐禅のやり方は人それぞれ?

こんなことを禅僧として修行もした私が言うと、何を言っているんだと思われるかもしれませんが

実は、禅宗のホームページなどを見ると、坐る型までなどは説明してありますが、瞑想状態のやり方はそれぞれの指導者に指導してもらうように等となっています。

指導者によって異なることがあるのです。

たとえば、坐禅で数息観はするか?

一般に、息、心を整えるために、当たり前のように数息観(すそくかん)という数を数えるやり方をするとよいとよく教えられています。

でも、禅宗の曹洞宗の開祖の道元禅師は、小乗のような数息観はしてはいけないと指導していました。

坐禅で数息観をすると集中の瞑想になる

いわゆる小乗の流れを引いているのは、今の上座部仏教またはテーラワーダ仏教と言われる派ですが、本来のマインドフルネス瞑想のブッダの瞑想法を守ってきたと考えられていて、近年のマイントフルネス瞑想の元もそうです。

そして、それは大別すると集中の瞑想のサマタ瞑想と気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想がありますが、数息観は週知友の瞑想のサマタ瞑想の1つのやり方になります。

つまり、坐禅で数息観をするというのは、坐禅というより集中の瞑想のサマタ瞑想をしていることになります。

奥義書での坐禅のやり方の説明

では、坐禅は本来どのようなやり方なのか。知る手立てとして日本の坐禅のやり方のおおもとの2つの奥義書、『普勧坐禅儀』と『坐禅儀』の両方から坐禅のやり方の部分をみてみてましょう。昔の言葉ですが読めばどうするものかわかると思います。

『普勧坐禅儀』『坐禅儀』全体は、やり方以外、坐禅とは何かなども説かれています。

坐禅儀にみる坐禅のやり方

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(まず、取組む前)

すなわち諸縁を放捨(ほうしゃ)し、万事を休息し身心一如にして、動静(どうじょう)へだてなく、その飲食をはかりて、多からず少なからず、その睡眠を整えて節(せつ)ならず、恣(し)ならず。   

坐禅せんと欲する時、閑静処において厚く坐物を敷き、寛く衣帯をつけ、威儀をして斉整ならしめよ。

(そして、足の組み方)

しかして結跏趺坐(けっかふざ)す。まず右の足をもって、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。あるいは半跏趺坐(はんかふざ)もまた可なり。ただ左の足をもって、右の足を圧すのみ。

(姿勢、左右揺振、口、目)

次に右の手をもって左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相支え、徐々として身を挙し、前後左右、反覆揺振して、すなわち身を正しうして端坐せよ。

左に傾き右に側立ち、前にかがまり後に仰ぐことを得ざれ。

腰脊頭頂骨節をして相支え、状(かたち)浮屠(ふと)のごとくならしめよ。また身を聳立つこと太だ過ぎて、人をして気急不安ならしむることを得ざれ。   

耳と肩と対し、鼻と臍と対し、舌は上の顎を支え、唇歯相著けしむることを要す。

目はすべからく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。もし禅定を得ればその力最勝なり。いにしえ習定の高僧あり、坐して常に目を開く。

向(さ)きの法雲円通禅師も、また人の目を閉じて坐禅するを訶して、もって黒山(こくざん)の鬼窟(きくつ)といえり。けだし深旨あり、達者これを知るべし。  

(瞑想状態は)

身相既に定まり、気息既に調うて、しかして後臍腹を寛放し、一切の善悪すべて思量することなかれ。

念起らばすなわち覚せよ。これを覚すればすなわち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片となる。これ坐禅の要術なり。

普勧坐禅儀にみる坐禅のやり方

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(取組む前)

夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲飡(おんさん)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。   

心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。豈(あ)に坐臥に拘(かか)はらんや。   

尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。

(足の組み方など)

或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。

謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の(もも)の上に安じ、左の足を右の(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の(もも)を圧(お)すなり。

寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。

(姿勢、口、目、欠気一息、左右揺振)

次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。

乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。

耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。   

鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して

(瞑想状態は)

箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。

坐禅のやり方 参考推論

いかがでしでしょうか。奥義書は読むと坐禅のやり方の要諦がわかるありがたい文章です。でも最後の瞑想状態の「要術」の部分が明白にわからない。

道元禅師の「箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」がよくわからない。いろんな解説がされています。

さて、坐禅は一般的に集中し無心になるというように考えられています。坐禅をしていて思考や感覚が現れてきたら、それらは取り合わずかまわず坐禅し続けるとされています。一般にはそのやり方で良いと思います。

ただ、道元禅師は中国で坐禅中に隣りの僧が師僧に怒られたのがきっかけで「眼横鼻直」と大悟なさいました。もし、道元禅師が無心になっていたら、そうはならなかったのではないでしょうか。では、どういうことか。ここからは推論です。

禅は瞑想が1種類

上記でもお話しましたが、ブッダの瞑想、仏教の瞑想は大別すると止観、止の集中の瞑想のサマタ瞑想、観の気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想があります。しかし、禅宗は坐禅1種類です。

坐禅は実は気づきの瞑想の面も持ったやり方だった?

今となっては推測するしかないわですが、坐禅儀のほうを見ると、瞑想状態の部分が「一切の善悪すべて思量することなかれ。念起らばすなわち覚せよ。これを覚すればすなわち失す」となっています。

この文はテーラワーダ仏教の気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想を修行した人は「あれ?」と思うのではないでしょうか。私は修行したのでそう思いました。

念起こらばすなわち「覚せよ」。一般に坐禅は思考などが現れても、それらにかまうことなく、ただひたすら坐禅を続けると言われていますが、そうではなく自覚する。

これは気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想と同じではないでしょうか。

また、ヴィパッサナー瞑想でも「これを覚すればすなわち失す」、現れた心身の現象は現れていているただありのまま自覚していると消えていきます。

こう考えると、実は道元禅師の「箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。」を、あぁそうかと思ったりします。

そして、古来、ヴィパッサナー瞑想が智慧の瞑想、悟りの瞑想です。

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