道元禅師『普勧坐禅儀』全文【現代語訳】仏法、禅の真髄がわかります
仏法とは、禅とは、坐禅とは…、この書を読むたびに身のひきしまる思いがします。日本の禅宗の曹洞宗の開祖、道元禅師が著わした『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』です。
もとは漢文で難解ですが、元の文の熱を失わないよう留意して意訳して現代文にしました。ぜひ読んでみてください。
普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)とは
日本の禅宗は鎌倉時代からで、鎌倉時代に、道元禅師が24歳で中国に渡り修行し、28歳で帰国して、すぐに書いたのが「普勧坐禅儀」です。
書いた場所は京都の建仁寺だったのではないか、中国禅宗の初期の清規に当たる「禅苑清規」に収められた「坐禅儀」に基づいて書いたと言われています。
普勧坐禅儀の「普」は「普及」などの「普」で「あまねく」、広くいきわたるようにする。「勧」は「勧誘」などの「勧」で、人にすすめて教える。「儀」は「儀式」などの「儀」で立派に正しくするための作法という意味です。
ですから、普勧坐禅儀は「坐禅の正しい作法を老若男女、万人に広くすすめる」書という意味になります。
普勧坐禅儀 全文の現代語意訳
秦慧玉先生の著書『普勧坐禅儀講話』(曹洞宗宗務庁発行)の講話の解釈文をもとにさせていただき意味を間違わぬよう注意し、できるだけわかりやすくと心がけ意訳しました。
原文の漢文と訓読読みは下記の関連記事をご覧ください。
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(以下、『普勧坐禅儀』現代文意訳)
もとより、仏道(仏性)、われわれが自然にそなえているところの本性、いわゆる道本は、元来円通、少しも破れたところのない家のようなもので、何の不足もない故に、修行をするしない、さとりを得る得ないによって生じたり滅したりしない。
仏道(仏性)という天来の乗り物はもともと自由自在にはたらいているもの。そこに何の苦労や努力をしようというのか。
道本(仏道、仏性)はそのまま清浄無垢で遠くはるかに煩悩迷妄のチリやホコリの世界からとび出ている。そこに何のチリやホコリを払いぬぐうべき手段が必要があるか。
仏の都はここを離れることはない。何を苦しんで、あくせくと走り回る行脚や修行の手段を講ずる必要があろうか。
しかしそうでありながら、わずかにでも差があれば、道本(仏道、仏性)は天地を隔てるほどになるのはなぜか。
それは自分の気に入る気に入らないという違順の念がわずかにでも起きるところから、とりみだし心を失う。
世の中には、一通り悟りを開いたとか見性したとか、自分でもそう思い、人からもそう許されてうぬぼれている人もあるが、これでは大悟徹底の人とはいえない。
悟りという臭いもなくなって、はじめて真の解脱人である。
大聖釈尊は、もともと無量劫来の修行の末にお生まれになり修行の必要のない生知の方であるが、出家から六年の坐禅修行の尊い跡形があることをしっかりと見極めるべきである。
初祖達磨大師は正しく伝わった仏心印を伝えんとはるばる海を渡り来られたが、少林山に九年面壁坐禅なされたというではないか。
釈尊や達磨大師のような古の聖人ですらそうである。今、我らがどうして坐禅修行の道をつとめずにおられよう。
ゆえに、今までの我が国の仏教者のような言語文字の解釈ばかりしておらず、心の本体本性に向かって返照し反省し、坐禅の真行を学び修すべきである。
おのずから身体も心も、すべての束縛から放たれて自由自在にはたらけるようになり、本来の持ち前、本性、仏性が現れるようになる。
かくのごときことを得たいのであれば、一刻の猶予なくかくのごとく次のようにつとめよ。
さて坐禅するには、静かなところがよく、飲食の量に節度をもつ。坐禅の妨げになる一切の物事との縁を捨て放ち、万事を休息させ、善悪を思わず、是非の分別にかかずらわない。
すべてあれこれと動く心の働きを止め、一切思量をめぐらすことなく、また仏になろうと意図しない。日常の坐臥の坐、行住坐臥の座とは異なる。
通常は、坐には厚い敷物を敷いて、上に坐蒲を置いて使う。
坐り方は結跏趺坐、あるいは半跏趺坐。結跏趺坐は、まず右の足を左の腿の上にのせ、左の足を右の腿の上にのせる。半跏趺坐は、ただ左の足を右の腿の上にのせる。
衣服はゆるめにし整える。
次に、右の手を左の足の上にのせ、左の手のひらを右の手のひらの上にのせ、両手の親指の先を向かい合わせる。
すなわち正身端坐、背をまっすぐ伸ばし、姿勢を正しく美しく整え、左や右に傾いたり、前かがみや後ろにそらないようにする。
耳と肩、鼻とヘソが垂直にまっすぐの場所にくるようにする。舌は上あごにつけ、両唇、上下の歯はきちんと合わせ、目はかならず常に開いておく。
鼻で静かに息をして、体の相を整えたら、呼吸を口で長く大きくして、体を左右にゆっくり揺り動かして、動かざる山のように坐禅する姿勢を定めよ。
不思量底を思量する。不思量底を思量とは、非思量、是非、善悪等の思量分別一切を離れて思量する。坐禅になり切る。これが、まさに坐禅の要術である。
坐禅を悟りを求めるためと思ったり、精神統一、はなはだしいのは健康増進のためにするものと誤解している者が多いがそうではない。
真実正伝の坐禅は、ただ安楽にして究極の仏行である。
坐禅こそ公案のまるだし、仏道の全体であり、いかなる束縛も絶えてない。
以上のように説いてきた坐禅の真の意義を体得したなら、竜が水を得、虎が山に自由にいるようなものである。
まさに仏祖の正法がおのずから現れ、気が沈み滅入ること散乱すること、すべての明暗、損失、是非、妄想はばったりと脱落する。
もし坐禅をほどき、坐から立つときは、徐々に体を動かし、静かにゆるやかに落ち着いて立つ。バタバタと音などをたててはならない。
かつてみるに、凡夫、聖人、迷い、悟りを超越し、あるいは坐禅したまま、あるいは立ったまま亡くなったのは、全く平生よりの坐禅修行の定力によるものである。
また、指頭や竿頭を用い、あるいは針や鎚(つち)を用いて悟らせる転機のはたらきとなし、さらに払子(ほっす)や拳(こぶし)をあげ、
棒で打ち一喝(いっかつ)をあびせることで師匠と弟子の悟りが寸分違わず合致するは、とうてい普通の思量や分別をもってわかるようなものではない。
神通力を得たとか、修行、悟りを完了したとか口にするような者には、けしてこの禅の活手段はわかるものではない。
坐禅というものは五根と五境の人の仏行である。知識見解や規則以前、坐禅は普通の心の作用でかれこれと思い考える以前の法則である。
そうであるからすなわち、賢愚利鈍に関わらず、専一に坐禅を功労努力すれば、それはまさに仏道を修めることになる。
修行、悟りはおのずから汚れることなく、日々の歩みにおいて何の奇もなく怪もなく、おもむきはさらに平常心是れ道という者となる。
おおよそ、あらゆる国土の諸仏諸祖は、等しく仏印を所持し、皆、宗風を盛んにしてきた。
ただ打坐を務めて、坐定三昧にかかりきって他を向くひまはない。仏道修行には多種多様の法門があるが、ただひたすらに坐禅の仏道を修めよ。
どうして自らの家の坐る場を放り出ししりぞけるようなことをして、みだりに他国のちりに汚れた所へ行ったり来たりするようなことがあろうか。もし初めの一歩をあやまれば、直にふみちがえる。
すでに人間に生まれるという尊い大事な機会を得て、むなしく時を過ごすことのないように。仏道の機会を保持してそのものになりきる、誰がすぐに消えるようにむなしく楽しむものか。
そればかりか、肉体は草露のようで、運命はあっという間の電光に似ている。犬が早く走るさまのようにたちまち空に帰り、またたく間に失われてしまう。
どうか、参禅学道に志す立派な人たちよ、長く模造の竜を見て楽しんでしまって、本物の竜を怪しむようではいけない。
直に自己の本性を指して仏性を観る道、坐禅に精進し、学ぶべきことはすべて学びつくしてそれを忘れ、修すべきことは全部修しつくして
しかも修したという跡形もとどめない境涯の絶学無為の人を尊貴し、諸仏の菩提に合わせかさね、諸祖の坐禅三昧を正統に継ぎなさい。
長くかくのごとくなることをすれば、当然にかくのごとしになる。微塵もまちがいはない。
如来智見の宝蔵、人間の心源たる道本(仏道、仏性)が開き、一切具足して使用自在となる。
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